バッカニア時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 08:19 UTC 版)
詳細は「バッカニア (海賊)」を参照 数名の歴史家は海賊の黄金時代を1650年頃に始まるとしている。その頃、宗教戦争が終結したことでヨーロッパ諸国は各々の植民地開発を再開し、それによって海上交易が盛んになった。そして新大陸の植民地から大量の富が生み出され(言い換えれば収奪され)、その多くが船で運搬された。 バッカニア(buccaneer)はカリブ海を中心にスペインの植民地および商船に攻撃を加えた無法者集団で、「バッカニア」という言葉は、狩った獲物の干し肉を作るのに彼らが用いた道具「ブカン」に由来するという。本人達は「沿岸の義兄弟」を称していた。早くも1625年に、フランス人のバッカニア達が当時ほぼ無人だったイスパニョーラ島北部(現在のハイチ)に根城を築いたが、当初彼らは盗賊というより猟師として生活していた。彼らが徐々に職業海賊に転身していったのは、バッカニアと彼らの獲物である野生化した牛や豚を根絶しようと、スペイン人がイスパニョーラ島に攻撃を仕掛けたからだった。バッカニア達はイスパニョーラ本島からもっと守りやすい沖合のトルトゥーガ島へ移住したが、そこは資源が不足していた。生きるため、そして恨みを晴らすためにバッカニアはスペイン人に対し略奪に乗り出した。アレクサンドル・エスケメラン(英語版)(バッカニアであると同時に歴史家で、彼の記録はこの時代の海賊の貴重な史料となっている)によると、スペインへ帰る途上のガレオン船を初めて攻撃したのはピエール・ル・グラン(英語版)だという。トルトゥーガ島には一種の海賊共和国が築かれ、独自のルールで海賊たちは島を統治した。トルトゥーガ島の評判が広がると、フランス人のみならずカリブ海から様々な国籍、人種のならず者どもが集まるようになった。スペイン軍はたびたび大艦隊を派遣してバッカニアを追い散らしたが、艦隊が帰ると彼らはすぐに島に戻ってしまった。 1655年にイギリスがジャマイカ島を占領すると、トルトゥーガ島を拠点とする海賊行為はさらに増加した。初期のジャマイカ総督達はトルトゥーガ島のバッカニアやイギリス人に進んで私掠免許を発行した。また、ジャマイカ島の当時の首都ポートロイヤルは戦利品を売り払うのに非常に都合が良かった。ポートロイヤルには酒場や娼館などが立ちならび、海賊たちは稼いだ金の大半をそこで浪費した。1660年代には、新たなトルトゥーガ島総督ベルトラン・ドジェロンが同様の委任状をフランス人植民者やポートロイヤルのイギリス人の殺人犯に与えた。これらの条件によってカリブ海における海賊行為はピークを迎えた。この時代に活躍した海賊には、1666年にマラカイボを襲撃したフランソワ・ロロネー、一介のバッカニアからジャマイカ副総督に上り詰めたヘンリー・モーガンなどがいる。
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