ピエール・ル・グランとは? わかりやすく解説

ピエール・ル・グラン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/07 14:24 UTC 版)

ピエール・ル・グラン
生誕 フランスノルマンディーディエップ
死没 おそらくカナダ
海賊活動
種別 海賊
活動期間 17世紀
活動地域 カリブ海

ピエール・ル・グラン (Pierre le Grand、生没年不詳)は、17世紀に活動したフランスバッカニア。ル・グランはアレクサンドル・エスケメリング英語版の「アメリカのバッカニア(The buccaneer of America)」以外での記録が確認できない人物であり、その実在は疑問視されている。

経歴

ル・グランはノルマンディーディエップ出身だとされるが、17世紀の半ばにトルトゥーガ島に渡って来た以前の詳細な半生については一切不明である。1635年頃、ル・グランはイスパニョーラ島西岸のディプロン岬沖合でスペインガレオン船を攻撃したことで知られている[1][2]。エスケメリングは自著でその場所がバハマ諸島南のタークス・カイコス諸島だったとも述べており、どちらかはっきりしない[1]

『カリブ海の海賊』より、船に接近する海賊 ハワード・パイル

ル・グランは1隻のボートに28人の乗組員を乗せ、獲物を求めて航海していた。長い航海の間に食料も底を突いて一味は餓死寸前であったが、そこにスペインの船団とその後方を続行しているガレオン船を発見した[3][4]。ル・グランたちは決死の覚悟でこの船を襲撃することに決め、夕闇に紛れてガレオン船に接近した[5]。ガレオン船はまるで戦闘の準備などしておらず、襲撃は容易に見えた。ル・グランはまず乗組員の船医に命じてボートの底に穴を開けさせた。この企てが失敗したとしても逃走するという望みを絶ち、必ず敵船を拿捕するという覚悟の表れだった[5]

剣とピストルで武装した一味は舷側からガレオン船によじ登り、まず舵手を射殺した[4]。そのまま船室に一味がなだれ込むと、船長や士官たちはトランプ遊びに興じている最中であった[5]。一味が船長にピストルを突きつけ船を引き渡すよう要求すると、驚いた船長は「お前たちは悪魔じゃないのか」と叫んだという[5]。さらに一味は抵抗するスペイン人たちを殺傷して武器庫を占領したため、ガレオン船はたちまち降伏することとなった[5]。掠奪の最中、洋上に浮かぶ沈みかけのボートを見た船長は「こんな小さなボートに乗っ取られるなんてあり得ない」と言って茫然と立ち尽くしていたという[5]

この大きな獲物を手に入れたル・グランは航海に必要な数人のスペイン人水夫を船に残し、残りは近くの島に送り返した[5]。そしてそのまま母国フランスへと出航し、二度とカリブ海には戻らなかったという[5]。ここでル・グランは歴史から姿を消したと思われたが、後年、モントリオールの移民記録に1653年に同名の人物が移住してきたという記録が残っているため、彼がカナダに移住したという説がある。いずれにせよその後一切海賊行為は行っていない。

脚注

  1. ^ a b エスケメリング P75
  2. ^ コーディングリ P73
  3. ^ エスケメリング P75-76
  4. ^ a b ゴス P233
  5. ^ a b c d e f g h エスケメリング P76

参考文献

  • ジョン・エスケメリング『カリブの海賊』石島晴夫訳、1983年7月、誠文堂新光社
  • デイヴィッド・コーディングリ(編)、増田義郎(監修)、増田義郎・竹内和世(訳)、『図説 海賊大全』2000年11月、東洋書林
  • フィリップ・ゴス(著)、朝比奈一郎(訳)、『海賊の世界史(上)』2010年8月、中公文庫

ピエール・ルグラン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 20:05 UTC 版)

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ピエール=エミール・ルグラン(Pierre-Émile Legrain, 1889年 - 1929年)は、フランスの製本・家具デザイナー。職人教育を受けた後、20世紀初頭パリ・アールデコの動向を受けて学術的芸術やモダンアートと手工業生産において職人からデザイン分野に移行して活躍した人物で、好奇心からこうした変革を享受し、材料や他文化から技術を吸収、応用して多くの優れた作品を残す。

概要

もともと手がけていた家具は、フランスのファッション業界やデザイナーから受注し、そうした業界向けに制作していた。その他に約1,200もの本の装幀デザインを手がけていた製本家でもある。これらのデザインでは、幾何学的なフォームを精巧な技法で構成し、希少で高価な素材からテクスチャ、表面の巧みな組み合わせにより全て丁寧なデザインが施されている。ルグランはまた家具デザインでは象牙、金箔、真珠、銀メッキガラスなど希少で高価な素材や段ボールなどを使用し、その素材の可能性を追求した。

1909年には、ポール・イリベによる季刊誌の「ル・テムアン」の図版を作成した。

家具デザイナーとしては、ルグラン自身はアフリカの文化美術をベースにした作品で著名となる。当時からフランスは植民地貿易で、様々なパリの美術館やディーラーらが西アフリカからコレクションを収集していたこともあり、ルグランはアフリカの工芸品やピカソブラックなどの芸術家のアフリカ的な作品を収集していた顧客からそうした家具制作を依頼され、制作していた。ピカソの魅力などとは違ったアフリカの作品の持つ魅力を、ルグランが目指す表現力をもって、フランス風になるように、アフリカ式の家具を求めていた。こうした家具がアールデコ運動の集大成である1925年6月のパリ万国博覧会に展示され知られるようになる。

さらには、極東の国の芸術が最も近代的なキュビズムと結びつくといったテーゼを打ち出し、内装デザインに漆塗皮革と中国鮫肌ガルーシャの構成効果がもたらす壮麗さに関する慎重な探究を進める。こうして素材に束縛されない工芸的感性に加えて、折衷的趣向を凝らしてガラスケースに映りこむピアノや自動車、煙草入れ、カメラや衣服、舞台セットなどのデザインに進出する。こうした素材や形態の用い方は過剰すぎるという批判もあったが、装丁デザインは圧倒的な支持を受けていて、よく模倣されている。

1925年のパリ万国博覧会にはその他にラ・セル・セントグラウドにつくられたタシャール夫妻のための庭園改修の一部平面図を出展し、シルバーメダルを獲得している。このプロジェクトでは敷地の造成や家のドアノブデザインにいたるまで担当している。庭園はキュビズム絵画の原理を新たな形態と空間を生み出す可能性として理解し、面と幾何学形態のバランスをとって、対称形を避けて構成している。庭園の側道に刈り込まれたチェスナットの並木が、のこぎり型の基部と対を成して並んでいる。こうしたのこぎりジグザグ型は、トーマス・チャーチガレット・エクボなど幾人かの庭園デザイナーにもひとつのモチーフとして応用されていく。

参考文献

  • 「装飾の美」同朋社、1990年
  • Pierre Legrain relieur. R pertoire descriptif et bibliographique de mille deux cent trente-six reliures.




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