海賊周航
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/16 06:47 UTC 版)
海賊周航 (かいぞくしゅうこう、英語:Pirate Round) とは、海軍によりカリブ海から排斥された海賊達がインド洋や紅海などに略奪の舞台を移した時代を指す。海賊周航は1690年から1700年までの1期と1710年代から1720年代までの2期に分けられる。
歴史
第一期
1690年頃海軍による取り締まりが厳しくなりカリブ海に居られなくなった海賊はインド洋と紅海に新たな獲物を求めた。海賊は北米植民地のボストンやニューヨーク、フィラデルフィア、プロヴィデンスなどで装備を整えた[1]。1696年の航海法の影響により経済的に困窮していた北米植民地では総督が海賊と裏で手を結んでおり植民地に奴隷や東洋の財宝を横流ししてもらう代わりに海賊達は工業製品、酒、火薬、銃等物資の支援を得られた[2][3]。これにより植民地側は年間100万ポンドもの利益を上げていた[4]。
一度の航海でインド洋に向かうのは無理が有るので中継地点が必要だった。元々は紅海のぺリム島を中継していたが間もなくマダガスカルに拠点を移すこととなる[5]。マダガスカルは政府による干渉を受けず食糧も十分にあることから中継地点としては都合が良かった。当時マダガスカルでは内戦が勃発しており、海賊はこれを好機と捉え、現地の内戦に加勢することを条件にセント・オーガスティン湾やセント・メアリー島などに拠点を設立していった[3]。
そうして築いた中継地点を経由して紅海やインド洋などに到達、そこでインドからメッカへの巡礼船を襲った。掠奪後はマダガスカルや英領北米などで財宝を売却した。
度重なる海賊行為によりムガル帝国との貿易関係を妨害された東インド会社はイングランド政府に対して対策を求めた[6]。その結果1697年には海軍軍艦がムガル帝国の巡礼船護衛に派遣され、1678年12月には海賊に対する特赦が発令された[6]。1702年イングランドがスペイン継承戦争に参戦し海賊が私掠船員としての職を得たことで海賊活動は減少していった[6]。ただし海賊減少の要因に関しては諸説あり不明である[6]。
第二期
第2の海賊周航はウッズ・ロジャーズによる海賊掃討作戦でニュープロビデンスを追い出された者たちによって始まった[7]。カリブ海を追われた海賊たちの一部は再びインド洋に逃れて第1の海賊周航で使用されたセントマリー島を拠点にしてインド、アラブ、ヨーロッパなど様々な国籍の船を襲い始めた[7]。
1721年、イギリス政府は度重なる海賊行為を取り締まるためにトマス・マシューズを指揮官とした討伐隊をインド洋に派遣[8]、モーリシャスとレユニオンの海賊基地を破壊した[9]。同年には海賊を取り締まるための海賊法が制定された。1721年の末、イギリス、フランス、オランダなどが互いに協力して海賊対策にあたったことでこの一帯から海賊は撤退した[9]。
海賊周航時代の海賊
- ウィリアム・キッド (William Kidd)
- ミッソン (Misson)
- ヘンリー・エイブリー (Henry Every)
- トマス・テュー (Thomas Tew)
- クリストファー・コンデント (Christopher Condent)
- エドワード・イングランド (Edward England)
- ジョン・テイラー (John Taylor)
- ナサニエル・ノース (Nathaniel North)
- アダム・ボールドリッジ (Adam Baldridge)
- オリビエ・ルバスール (Olivier Levasseur)
- ジェームズ・プランテーン (James Plaintain)
脚注
- ^ 薩摩真介『海賊の大英帝国』講談社、2018年11月9日、103頁。
- ^ フィリップ・ゴス『海賊の世界史 下』朝比奈一郎訳、中公文庫、2010年8月25日、11-12頁。
- ^ a b 薩摩真介『海賊の大英帝国』講談社、2018年11月9日、110頁。
- ^ デイヴィッド・コーディングリ『図説 海賊大全』増田義郎・竹内和世訳、東洋書林、2000年11月9日、295頁。
- ^ デイヴィッド・コーディングリ『図説 海賊大全』増田義郎・竹内和世訳、東洋書林、2000年11月9日、311頁。
- ^ a b c d 薩摩真介『海賊の大英帝国』講談社、2018年11月9日、131-132頁。
- ^ a b 薩摩真介『<海賊>の大英帝国 掠奪と交易の四百年史』講談社、2018年11月11日、153頁 。
- ^ フィリップゴス『海賊の世界史 第2巻』中央公論新社、2010年8月25日、107頁。ISBN 978-4-12-205359-5 。
- ^ a b デイヴィッドコーディングリ『図説海賊大全』東洋書林、2000年10月、334頁。ISBN 978-4-88721-496-5 。
海賊周航
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「オリビエ・ルバスール」の記事における「海賊周航」の解説
1721年4月、船の指揮権をエドワード・イングランドから奪ったジョン・テイラーと合流したルバスールはレユニオン島のサン・ドニにて、インド南西沿岸のゴアを出航後、嵐でマストが折れて港に避難していたポルトガル船ノッサ・セニョラ・ド・カボ号を発見した。カボ号には東洋の財宝のほか、ゴア副王エリセイラ伯兼ロウリサル侯ルイス・デ・メネゼス、そしてポルトガル王に届くはずのダイヤモンドを満載していた。一味はカボ号を攻撃し、乗船していたエリセイラ伯爵も勇敢に応戦したが、白兵戦で剣を折られてようやく降伏した。伯爵はこれにより大きな損失を被ったほかに貴重なオリエントの文書類を銃の詰め物にするために奪われ、さらにダイヤモンドが失われたことに腹を立てたポルトガル王により宮廷を追放されてしまった。 カボ号を奪った一味はサント・マリー島に向かい、当地で略奪品の分配を行った。ダイヤモンドだけで50万ポンドもの値打ちがあり、それ以外の積み荷の価値も37万5千ポンドにのぼった。乗組員はそれぞれ4,000ポンド以上と一握りの宝石を受け取ったという。
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海賊周航
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1690年代が始まると同時に、バッカニア時代の終わりに苦杯を舐めたイギリス人やアメリカ人の海賊の多くが財宝を求めてカリブ海の外に目を向け始めた。バッカニアの没落には多くの理由があった。イギリスでスチュアート朝が崩壊したことで昔ながらの英仏の対立が再燃し、英領ジャマイカと仏領トルトゥーガの共同関係が崩れたこと、1692年の地震でポートロイヤルが壊滅し、略奪品を捌く市場が失われたこと、カリブ海植民地の総督たちがそれまでの「(トルデシリャス条約で引かれた)本経線を越えて平和なし(No peace beyond the Line)」という政策を放棄しはじめたこと(この政策がとられているうちは、ヨーロッパで平和条約が締結されていても新大陸では戦争が続いていると考えられていた。そのため私掠免許状が発行されていたのだが、これ以降は免許状の発行はヨーロッパでの戦争中に限られるようになり、締め付けは徐々に強まっていった)などがあげられる。これらの理由に加えて、単純にスペイン領の主要植民地が消耗しきってしまっていたことも大きかった。1667年から1678年にかけて、マラカイボだけで3回、リオデラアチャは5回、トル(現コロンビア)にいたっては8回も略奪を受けていた。 同時に、イギリス本国は数度にわたり航海法を公布したため、イギリスの植民地(バーミューダ、ニューヨーク、ロードアイランドなど)は金欠状態に陥っていた。財貨に飢えた商人や総督は、海賊を見過ごすばかりでなく、彼らの航海に保険を与えたりした。とある植民地の役人は「領内に金をもたらす人々の縄に首を掛けるのは残酷な所業である」として海賊を保護したほどである。これらの海賊のなかには1690年代以降も北米のニューイングランドや中部植民地(ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルヴェニア、デラウェアの4州)から出発して、遠く離れたスペインの太平洋の植民地を標的にする者もいたが、彼らの多くはインド洋に獲物を求めた。この時代、インドの生産力はヨーロッパのそれを大きく上回っており、とくに絹やキャラコなどは高価で取引されたため、それらが海賊の理想の略奪品になった。加えてインド洋には目立った海軍勢力が存在せず、ムガル帝国の船舶や各国の東インド会社の商船は襲撃に弱かった。また、アフリカ東岸のマダガスカル島は前の時代におけるトルトゥーガ島に相当する役割を果たした。これらを背景に、トマス・テュー、ヘンリー・エイヴリー、ロバート・カリフォード(英語版)、そしてウィリアム・キッドなどの有名な海賊が活躍した。しかし、1697年にフランス軍・バッカニア連合軍がカルタヘナを占領したの最後に、バッカニア時代から続いた海賊の活動も徐々に下火になっていった。
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