海賊団の拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 14:47 UTC 版)
1717年の終わりから1718年初頭にかけてのティーチの行動はわかっていない。ヘンリー・ボストックは、ティーチらがイスパニョーラ島のスペイン支配下にあるサマナ湾に向かうと言っていた、と口述しているが、捜査の結果、海賊行為は発見されなかった。 英国艦スカボロー号のヒューム艦長は、2月6日に「36門の大砲と250人の兵士を擁する海賊船と、10門の大砲と100人の船員の船からなる一団がリーワード諸島を航行中という情報を得た」と報告した。ヒュームはこの2隻が、セントクリストファー島沖でフランスの船を沈めたと考え、船員をマスケット銃で補強して追跡し、最終的に「イスパニョーラの北方向に去っていった」のを見たと報告した。この2隻の船がティーチとボネットによって指揮されていたという確証はないが、作家兼歴史家のアンガス・コンスタム(en:Angus Konstam)は黒髭の船団であった可能性が非常に高いと考えている。 1718年3月、2隻はベリーズの東にあるターネフ島での給水中に、港を作るためにジャマイカ産のアカミノキを切り出していたスループ船アドベンチャー号を停止させ、その船長であるハリオットに海賊団に入らないかと誘った。ハリオットと部下たちは誘いを受けたため、ティーチはアドベンチャー号に手下を配属させ、船長にイスラエル・ハンズを任命した。さらにホンジュラス湾への航行中に、別の船と4つスループ船を海賊団に加えた。4月9日、ティーチの拡大した船団はプロテスタント・シーザー号を襲撃して略奪し、火をつけた。そして彼らは「小さな亀(small turtler)」を捕獲し、グランドケイマン島から出航した。ティーチはおそらくハバナに向かって航海したが、その途中でキューバを出港した小さなスペイン船を拿捕したのかもしれない。それから彼らはフロリダの東海岸沖に1715年に沈没したスペイン艦隊の残骸に向かって出航した。ティーチは、カロライナ植民地のチャールズタウンへと北上する前に拘束していたスペインのスループ船の船員たちを解放し、道中では3隻の船を襲撃した。
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