創作力の減退
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「ピアノ三重奏曲 (フォーレ)」の記事における「創作力の減退」の解説
1922年1月、ニース滞在中のフォーレにピアノ三重奏曲の作曲を提案したのは、彼が出版契約を結んでいたデュラン社の社主ジャック・デュランだった。デュランは、モーリス・ラヴェルが第一次世界大戦前夜に作曲したピアノ三重奏曲(1914年)のような音楽を書いてみてはどうかと勧めた。 フランスのフォーレ研究家ジャン=ミシェル・ネクトゥーによれば、この年の1月から8月にかけて、フォーレの創作力は完全に失われていた。1月20日付け妻マリーに宛てたフォーレの手紙には、「今の状態が長く続かないことを願っています。なぜなら、私は猛烈に仕事がしたいのです。」と書き、2月2日付けの手紙では、「老いよ、消え失せろ!」と自らを叱咤している。しかし、3月4日付けの手紙では「恥ずかしい話ですが、私は毎日をわらじ虫のように家の中に閉じこもって過ごしています。まったく何もしていません。ニースに来てから、書くに値するような音符はまだ二つと見つけていないのです。私の才能は涸れてしまったのでしょうか……。」と悩みを打ち明けている友人の作曲家ポール・デュカスに宛てた同年4月21日付けの手紙では、フォーレはワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』から一節を引用しつつ、ユーモアと自嘲を交えながら、「私はこの4ヶ月間で、ワーグナーのグルペットに負けないくらい歳を取りました。」と述べている。 また、悩まされてきた聴覚障害に視力の衰えや歯のトラブルも加わり、フォーレは次第に孤立していった。次男のフィリップ・フォーレ=フレミエは、このころのフォーレについて次のように述べている。 「相手をどれだけ思いやり、尊敬していようとも、父には、周りの調子に合わせて普通の会話をするのは不可能であった。食卓で、周りの人たちの関心が直接自分に注がれなくなると、たちまち父は不安そうな様子を見せた。そして目を凝らして、人々の顔の表情からその心を読み取ろうと努めた。父はこうした努力に疲れ果てたが、かといって、自分の存在を人に押し付けるようなことは好まなかった。何も言わずに、人々の関心が自分のところに戻ってくるのを待っていたのである。」 — フィリップ・フォーレ=フレミエ
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