企画者、招聘者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/03 09:06 UTC 版)
「ダニエル・コー」の記事における「企画者、招聘者として」の解説
音楽イベントのプロデューサーとしては、1970年の「マーグ財団の夜」音楽祭(アメリカ特集年)に、アメリカの「フリー・ジャズ」から、サックス奏者アルバート・アイラーを初めて米国外で演奏させ、またサン・ラのグランド・オーケストラを招聘した。 また、セシル・テイラーをパリに招聘した際、親交のあったリュック・フェラーリを紹介し、フェラーリはこの模様を映画「大いなるリハーサル」の”パリのセシル・テイラー”として制作した。 米国現代音楽の「アンダーグラウンド」系では、ラ・モンテ・ヤングの「シアター・オブ・エターナル・ミュージック」や、テリー・ライリーの延々と続く反復変奏のようなミニマル・ミュージックをフランスに紹介した。 「ポストモダン」的音楽傾向へのダニエル・コーの思い入れは、パリの「テアトル・ド・ラ・ヴィル」において、「他の音楽たち」と題されたコンサート・シリーズとして結実し、1986年エストニアの作曲家アルヴォ・ペルトを発掘し、1989年まで、アメリカのジョン・ハッセル、マイケル・ガラッソ、グレン・ブランカのような規格外の音楽家たちを数多く紹介した。 また他の重要な作曲家をパリに招聘した。主なものとしては1971年「パリの秋」音楽祭において「テアトル・ド・ラ・ミュジック」にスティーヴ・ライヒを、1973年にはフィリップ・グラスを、1974年にはロバート・アシュリーと「ソニック・アーツ・ユニオン」を招聘した。 一連の彼らとの関係はパートナーであり、協力者でもあったジャクリーヌ・コーによって「プリズムの色、時間のメカニック "Prism's Colors, the Mechnics of Time"」として映像化されている。 「新しい流れ」の名の下に彼は、フランス・キュルチュールのためにパリ市立近代美術館の若手芸術家ビエンナーレの枠内で二つのコンサートシリーズを企画したが、これは「ポストモダン」と呼ばれるミニマリズムから派生した音楽的方法に焦点を当てたものだった。1980年には、ギャヴィン・ブライアーズとマイケル・ナイマンという2人の英国人と、米国西海岸からはハロルド・バッドとダニエル・レンツを呼んだ。1982年には、ムーンドッグの大オーケストラと、ロンドンのペンギン・カフェ・オーケストラを招聘した。 パトリス・シェローの要請により、アラン・クロンベックと共に、1984年と1985年、ナンテール=アマンディエ劇場において、「アラブ音楽の日々」と題するコンサートを企画。 1995年、アメリカの作曲家ハリー・パーチについてのいくつかのラジオ番組を放送することで、1970年代初頭から彼が構想していたフランスでのコンサート企画がようやく進展することになった。これらのラジオ放送の後、フランスにおいて初めて、リールにおけるアメリカ音楽祭でハリー・パーチによって作られた楽器がディーン・ドラモンドの「ニューバンド」によって演奏された。
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