生誕から学生時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 08:39 UTC 版)
1882年3月8日に、的矢村にて父・峰吉と母・りうの3男として生まれる。地元の的矢尋常小学校を卒業後、学を成そうと上京、旧制日本中学校(現在の日本学園中学校・高等学校)を出て1899年(明治32年)に東京専門学校予科に入学、卒業後は早稲田大学哲学科に進むが、後に英文科に転じる。途中、病気療養のため帰郷することもあったが、1903年(明治36年)に早稲田大学英文科を卒業する。
※この「生誕から学生時代」の解説は、「嶋田青峰」の解説の一部です。
「生誕から学生時代」を含む「嶋田青峰」の記事については、「嶋田青峰」の概要を参照ください。
生誕から学生時代(1896-1918)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 04:56 UTC 版)
「戸倉ハル」の記事における「生誕から学生時代(1896-1918)」の解説
1896年(明治29年)11月9日に、香川県仲多度郡南村 田村(現・丸亀市田村町)にて父・戸倉宇吉、母・戸倉エイの長女として生まれた。戸倉家は代々、村長を務めてきた家系で、戸倉は父母・祖父母の愛を一身に受けてのびのびと育った。毎日のようにお伽話を聞いて育ち、特に浦島太郎や桃太郎が思い出に残ったと後年に語っている。5歳の時に妹のナツが生まれ、以後生涯仲の良い姉妹関係が続いた。学齢期になると、近くの小学校(現・丸亀市立城南小学校)に進学し、遠方に丸亀城や飯野山(讃岐富士)を望む豊かな自然の中で少女時代を過ごした。後の戸倉の作品に登場する「故郷」のイメージは、この頃に胸に刻まれた風景であった。小学校卒業後、香川県丸亀高等女学校(丸亀高女、現・香川県立丸亀高等学校)補習科に進学した。勉強熱心で教師から可愛がられ、帰宅が遅くなると父が提灯を持って迎えに来るほど大事にされていた。当の戸倉は何度も父が迎えに来ることに嫌気が差し、帰路で迎えの父と出会っても知らんぷりして早足で帰宅したという。 1915年(大正4年)3月、丸亀高女を卒業し、同年4月に東京女子高等師範学校(東京女高師、現・お茶の水女子大学)附設の第六臨時教員養成所(第六臨教)家事科第一部に進学した。家事科には第一部と第二部があり、戸倉が入学した第一部は、第二部よりも体操や音楽の授業が多いという特色があった。ここで永井道明から合理体操、跳び箱・平行棒・肋木・梯子を使った体操を、二階堂トクヨから器械体操、ダンス、スウェーデン体操を学んだ。特に夜まで厳しい指導を受けた二階堂の授業が強い印象を与え、二階堂から教わった「三人遊び」などのダンスは、生涯戸倉の中に生き続けた。とは言え、所属はあくまでも「家事科」なので、専門的に学んだのは家事科が中心であった。1918年(大正7年)3月、修身・家事・体操の教員免許を取得して卒業した。
※この「生誕から学生時代(1896-1918)」の解説は、「戸倉ハル」の解説の一部です。
「生誕から学生時代(1896-1918)」を含む「戸倉ハル」の記事については、「戸倉ハル」の概要を参照ください。
- 生誕から学生時代のページへのリンク