生誕から密航まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 01:06 UTC 版)
薩摩国鹿児島郡鹿児島城下新屋敷町で、薩摩藩士で奥医師の湯地定之とその妻貞の長男として生まれる。 元治2年2月(1865年3月)から慶応2年1月(1866年3月)まで、勝海舟の私塾にて学んだ。当時、薩摩藩は薩英戦争を機に、藩士を密かに欧米へ留学させようとしていたことから、仁礼景範、江夏嘉蔵、吉原重俊、種子島敬輔、木藤市助(準備のため事前に渡米)とともに薩摩藩第二次米国留学生に選出される。 慶応2年3月28日(1866年5月12日)、グラバーの援助で長崎からポルトガル船に乗りイギリス経由でアメリカへ密航した。 このとき、藩主から工藤十郎(Zuro Kudo)という変名を授かり、留学中に使用している。
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