生誕から延安入りまで
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山口県萩市の商家に生まれる。3月30日生まれだったため参弎と名付けられた。9歳で母の実家である野坂家の養子となり、野坂姓となる。幣原内閣書記官長となった内務官僚・次田大三郎は江口定条の娘と結婚し、野坂参三の龍夫人の義兄(姉婿)になる。 明治31年、萩市の明倫尋常小学校入学。山口県立萩中学(現・山口県立萩高等学校)、兵庫県立神戸商業学校(現・兵庫県立神戸商業高等学校)に進学。在学中論文に「社会主義を論ず」を発表して教師からひどく叱責される。明治45年、慶應義塾大学理財科に入学し、在学中に友愛会や新人会に入り労働運動に参加する。卒業後、常任書記となる。1919年(大正8年)友愛会の派遣でイギリスに渡り、グレートブリテン共産党に参加する。帰国後、第一次共産党結成に参加。1923年(大正12年)6月5日の第一次共産党検挙事件に際してソ連へ密航した。 日本労働総同盟の産業労働調査所主事となり、慶應の後輩野呂榮太郎に影響を与える。のち三・一五事件で検挙されたが、「目の病気」を理由に釈放された。この釈放後、野坂は1931年(昭和6年)に妻の野坂龍とともに秘かにソ連に入国するが、その経緯には謎が多い。外国人向け政治学校東方勤労者共産大学(クートヴェ)で秘密訓練を受け、コミンテルン、内務人民委員部(NKVD)のスパイになったという。その後米国にも入国、アメリカ共産党とも関係を持つ。また、1940年(昭和15年)、中華民国の延安で中国共産党に合流する。同年10月に日本工農学校を組織したり、1944年(昭和19年)2月日本人民解放連盟を結成し、日本人捕虜に再教育を行ったり前線で「日本兵士よ。脱走しなさい。私が日本に帰れるようにしてあげます。共産党第八路軍、日本人岡野進」という内容のビラを配布するなど、日本帝国主義打倒を目指した活動をおこなった。野坂は一貫して天皇制に融和的であり、天皇制打倒を掲げた党の方針とは異なる立場を表明することが多かった。
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