生誕から延安入りまでとは? わかりやすく解説

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生誕から延安入りまで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 14:43 UTC 版)

野坂参三」の記事における「生誕から延安入りまで」の解説

山口県萩市商家生まれる。3月30日生まれだったため参弎と名付けられた。9歳で母の実家である野坂家養子となり、野坂姓となる。幣原内閣書記官長となった内務官僚次田大三郎江口定条の娘と結婚し野坂参三龍夫人の義兄姉婿)になる。 明治31年萩市明倫尋常小学校入学山口県萩中学(現・山口県立萩高等学校)、兵庫県立神戸商業学校(現・兵庫県立神戸商業高等学校)に進学在学中論文に「社会主義論ず」を発表して教師からひどく叱責される。明治45年慶應義塾大学理財科入学し在学中友愛会新人会入り労働運動参加する卒業後、常任書記となる。1919年大正8年友愛会派遣イギリス渡りグレートブリテン共産党参加する帰国後、第一次共産党結成参加1923年大正12年6月5日第一次共産党検挙事件に際してソ連密航した日本労働総同盟産業労働調査所主事となり、慶應後輩野呂榮太郎影響与える。のち三・一五事件検挙されたが、「目の病気」を理由釈放された。この釈放後、野坂1931年昭和6年)に妻の野坂龍とともに秘かにソ連入国するが、その経緯には謎が多い。外国人向け政治学東方勤労者共産大学クートヴェ)で秘密訓練を受け、コミンテルン内務人民委員部NKVD)のスパイになったという。その後米国にも入国アメリカ共産党とも関係を持つ。また、1940年昭和15年)、中華民国延安中国共産党合流する同年10月日本工農学校組織したり、1944年昭和19年2月日本人民解放連盟結成し日本人捕虜再教育行った前線で「日本兵士よ。脱走しなさい。私が日本帰れるようにしてあげます共産党第八路軍日本人岡野進」という内容ビラ配布するなど、日本帝国主義打倒目指し活動おこなった野坂一貫して天皇制融和的であり、天皇制打倒掲げた党の方針とは異な立場表明することが多かった

※この「生誕から延安入りまで」の解説は、「野坂参三」の解説の一部です。
「生誕から延安入りまで」を含む「野坂参三」の記事については、「野坂参三」の概要を参照ください。

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