生誕から王位継承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 05:49 UTC 版)
シメオンはボリス1世の三男(あるいは次男)として864年頃に生まれた。 当時、ブルガリアと東ローマ帝国は戦争状態であったが、劣勢だったブルガリアは864年に和睦の条件としてキリスト教の受容が要求される。和睦に対してブルガリア貴族の反乱が起こったり、西のローマ教会と一時的に関係を持ったりしたが、ボリス1世は貴族の反乱を鎮圧し、最終的に870年には東ローマ教会に属することを決定する。また、コンスタンティノープルに東ローマ総主教フォティオスの提案でブルガリア人のための学校が建てられると、国の青年らと一緒にシメオンもそこに留学した。ボリスは、ゆくゆくはシメオンをブルガリアの高位の聖職者とすることを期待していたようである。シメオンはコンスタンティノープルの学校でデモステネスの修辞法とアリストテレスおよび三角法などを学び、留学を終えるとブルガリアのプリスカかプレスラフの修道院で、(クレメンス、ナウム、トゥドル・ドクソフ、コンスタンティン司祭らによって組織化された)ギリシア語からスラブ語への、典礼書の翻訳作業に従事していたと考えられる。 しかし、889年にボリスが退位して長男のヴラディミル(ラサテ)に王位を譲ると、彼は貴族らと結託して反キリスト運動を起こし、ギリシア人聖職者の追放、大主教ステファノスらの投獄、バヴァリア王アルヌルフとの反東ローマ軍事同盟の交渉などを開始する。こうした事態に、それまでプレスラフ修道院に隠居していたボリスは893年に元臣下やシメオンらの助けを借りてこれを鎮圧した。そして、ブルガール人やスラブ人族長、地方統治官、政府高官からなる貴族会議を招集して、三男のシメオンがブルガリア王に即位することを承認させた。また、この会議で首都をプリスカからプレスラフへ遷都、宗教用語および行政用語をギリシア語からスラブ語へ公式に変更することが決定された。
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