生誕から海軍兵学寮卒業まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 16:00 UTC 版)
「山本権兵衛」の記事における「生誕から海軍兵学寮卒業まで」の解説
薩摩国鹿児島郡の鹿児島城下加治屋町(現・鹿児島市加治屋町)に薩摩藩士で右筆及び槍術師範を務めていた山本五百助盛珉の六男に生まれる(幼名も権兵衛)。諱は盛武。薩英戦争及び戊辰戦争に従軍。 戊辰戦争後、1869年(明治2年)に当時の政府高官であった西郷隆盛の紹介で勝海舟の薫陶を受け、開成所、海軍操練所そして海軍兵学寮と 海軍軍人への道を歩むことになった。海軍兵学寮では実戦を体験した山本らの学生は、実戦を体験していない近藤真琴などの教官に素直に従わないこともあった。「教官はそう言われるが、実戦での体験では、そのようなことは無い」と批判するのが常套手段であった。 西郷隆盛が明治政府から下野した時は、1874年(明治7年)に西郷を追って鹿児島へ一時的に帰省するも、西郷自らの説得により海軍大輔・川村純義に詫びを入れ兵学寮に戻った。同年に海兵2期卒業、 席次は17人中16席。
※この「生誕から海軍兵学寮卒業まで」の解説は、「山本権兵衛」の解説の一部です。
「生誕から海軍兵学寮卒業まで」を含む「山本権兵衛」の記事については、「山本権兵衛」の概要を参照ください。
- 生誕から海軍兵学寮卒業までのページへのリンク