生誕から小学校教師へ(1888-1911)
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「野口源三郎」の記事における「生誕から小学校教師へ(1888-1911)」の解説
1888年(明治21年)8月24日、父・丸橋栄三郎、母・丸橋筆子の長男として、埼玉県榛沢郡横瀬村(現・深谷市横瀬)で生まれる。しかし生後100日にして母・筆子が病死したため、2歳で母の郷里・大里郡岡部村宿根(現・深谷市宿根)の親戚・野口八十郎の養子となる。 1895年(明治28年)、岡部尋常小学校(現・深谷市立岡部小学校)に入学する。当時の岡部小は岡部忠澄の菩提寺である普済寺を校舎としており、1学年1組の小規模校であった。低学年は童謡「金太郎」を歌いながらのお遊戯、高学年は「美容術」と呼ばれる徒手体操や亜鈴体操といった体育の授業が行われた。野口の小学校入学時はちょうど日清戦争終結と重なり、凱旋した高崎連隊区の兵隊を英雄として迎え入れる風潮があり、自由時間には上級生が下級生を従えて隊列を作り、竹製の鉄砲を構えて軍歌を歌いながら行進する軍隊ごっこが行われていた。野口少年は「競馬会」と称する近隣の村々から集まった子供たちによるかけっこで何度も勝利し、夏には近くの池で水泳を楽しんだ。最終学年の4年生の時、同級生がいたずらをして教室からつまみ出される際、教師が児童の耳を引っ張ったことに野口は憤慨し、抗議するも聞き入れらなかったため、友人らを引き連れて翌日から深谷尋常小学校(現・深谷市立深谷小学校)へ転校した。事情を聴いた深谷小の教師は野口らを教室に迎え入れ、無事に深谷小を卒業する。 1899年(明治32年)、深谷高等小学校(現・深谷市立深谷小学校)に進学する。深谷小では「美容術」と呼ばれる徒手・亜鈴・棍棒体操と兵式体操を経験した。野口少年は引き続き競馬会に出場したほか、冬には陣取りをして遊び、球竿を使って幅跳びや高跳びをしていた。この頃、剣術ごっこを始め、淡い初恋を経験している。1903年(明治36年)、深谷小を卒業し、1年間代用教員を務め、埼玉県師範学校(現・埼玉大学)附設乙種講習科へ進学、半年で卒業して准訓導の資格を取得、准訓導として半年間教壇に立った。 1905年(明治38年)4月、埼玉県師範学校(埼玉師範)一部に入学した。同年5月に東京へ出かけ愛宕山に登り、生まれて初めて海を見た。野口が入学した頃、世間では日露戦争が終盤を迎え、埼玉師範でも尚武・勤倹の風潮があり、近くの無縁墓で肝試しが行われた。全寮制で上下関係が徹底していたことから、新入生は上級生の部屋の掃除、給茶、靴磨きなどをさせられ、廊下の中央を歩いていたというだけで鉄拳制裁を受けるような厳しい寮生活であった。そこで野口は下級生時代に「SH会」と名付けた友人有志で休日に寮から抜け出し、東京に出かけ正則英語学校(現・正則学園高等学校)で語学の勉強をしていた。1年生の夏休みにはSH会の仲間で「鍛錬旅行」と称して埼玉から徒歩で富士登山に出かけたが、極端な貧乏旅行であったため帰り着いて入浴している最中に貧血で倒れている。スポーツの面では、剣道・テニス・水泳・野球などに取り組み、特に剣道とテニスには自信を持っていた。剣道では3・4年生の頃に大将を務め、大日本武徳会主催の全国大会に出場し、5位に入賞している。テニスでも3・4年生の頃に大将であり、関東レベルの大会で優勝を経験した。1909年(明治42年)3月に同校を卒業した。 1909年(明治42年)4月より母校の岡部尋常高等小学校訓導となり、現地の青年団長も務めた。岡部小ではこの頃、校長を中心に校舎の全面改築を進めていたが、完成間近にして校長が交代させられ、新しく赴任した校長は村長の親戚筋であった。このことに割り切れない思いを抱いていた野口は、新校長が連合青年団を結成し、規約を定め、その発会式を開いたところで「既存青年団の特徴を生かしてほしい」と提案した。式に参加していた青年らは野口に賛成し会場が騒然となったため、臨時休憩が宣言されると青年は全員帰ってしまい、式は流会となった。青年の帰宅を野口は全く予期していなかったが、「野口が青年を扇動したのではないか」と疑いをかけられ、県の視学らから詰問された。結局、野口は無罪放免となったが、この事件を契機に校長は退職した。事件は中央新聞地方版に掲載され、多くの人に知られることとなり、野口は周囲の人から心配され、野口自身埼玉を離れたいと思うようになった。
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