生誕から日本留学時代まで
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1881年に誕生。幼い時は裕福な家庭だったが父の死が原因で家が没落、学問を尊ぶ伝統を残している家の長男。18歳で南京にあった理系の学校に入学、4年間を過ごす。その間、厳復が訳した『天演論』などを読み、新しい思想にふれる。1902年、国費留学生として日本に留学した。医学を専攻したが、同時に西洋の文学や哲学にも心惹かれた。ニーチェ、ダーウィンのみならず、ゴーゴリ、チェーホフ、アンドレーエフによるなどロシアの小説を読み、後の生涯に決定的な影響を与えた。ヴェルヌの科学小説『月界旅行』、『地底旅行』の翻訳をする。1904年、仙台医学専門学校の最初の中国人留学生として入学し、学校側も彼を無試験かつ学費免除と厚遇した。特に解剖学の藤野厳九郎教授は丁寧に指導した。しかし、彼は学業半ばで退学してしまう。当時、医学校では講義用の幻灯機で日露戦争(1904年から1905年)に関する時事的幻灯画を見せていた。このとき、母国の人々の屈辱的な姿を映し出したニュースの幻灯写真を見て、小説家を最終的な自分の職業として選択した。その幻灯写真には中国人がロシアのスパイとしてまさに打ち首にされようとしている映像が映し出されていた。そして屈辱を全く感じることなく、好奇心に満ちた表情でその出来事をただ眺めているだけの一団の中国人の姿があった。のちに、はじめての小説集である『吶喊』(1923年)の「自序」にこの事件について以下のように書いた。 あのことがあって以来、私は、医学などは肝要でない、と考えるようになった。愚弱な国民は、たとえ体格がよく、どんなに頑強であっても、せいぜいくだらぬ見せしめの材料と、その見物人となるだけだ。病気したり死んだりする人間がたとい多かろうと、そんなことは不幸とまではいえぬのだ。むしろわれわれの最初に果たすべき任務は、かれらの精神を改造することだ。そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むろん文芸が第一だった。そこで文芸運動をおこす気になった。(竹内好訳『阿Q正伝・狂人日記』(1955年)岩波文庫) 魯迅が幻灯を見た建物「仙台医専六号教室」は、1904年に建設され、移築された後、2021年現在実在している。「魯迅の階段教室」には魯迅と藤野先生の写真が掲げられている。魯迅は「中央のブロック、前から3列目の真ん中あたりにいつも座っていた」とされ、江沢民総書記も着席した。東北大学構内には東北大学資料館があり、魯迅記念展示室がある(但し、阿部兼也と竹内好によれば、ガラス絵で描かれたスライドに詳細に描かれることが考えにくいことを理由にフィクションである可能性があると指摘されている。更に、発見されたガラス絵の幻灯スライドには、スパイ行為により死刑執行された様子を映すものはなかった。一方で、申彦俊によるインタビューよると、映画館のニュース映画により銃殺された場面を見たことになっている。また、博文館発行の『日露戦争実記』[1905年12月13日号、最終号]では、「満州軍中露探の処刑」の写真があり、実際に旧日本軍によるロシアのスパイに対する斬首刑の執行がされている。) その後、この時とばかり東京で雑誌の出版事業を始め、教訓的な内容の散文を文語体で書いた。それは中国人にダーウィンの進化論や英雄出現を求めるニーチェの哲学を啓蒙する狙いであった。これらの散文は、後に『墳』と名付けられた散文集に収められた。また、周作人が編集した2巻からなる『域外小説集』のために3編の外国小説(アンドレエフの2編とガーシンの1編)を翻訳した。しかし『域外小説集』の売れ行きは伸びず、各巻20冊ほどだったという。文学出版事業の失敗に落胆した彼は、1909年に帰国した。 7年間の日本留学の間、日本人の親友は一人もできなかった。辛うじてある教師(『藤野先生』)を尊敬しただけだった。帰国後も、民族や国家の大原則にかかわる問題が生じた際には、必ず中国側に立ったと孫利川は述べている。 神奈川県鎌倉市にある円覚寺の塔頭「佛日庵」には、1933年(昭和8年)に魯迅より寄贈されたというハクモクレンとタイサンボクの木がある。
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