生誕から社会人人生の開始まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 14:26 UTC 版)
「松永安左エ門」の記事における「生誕から社会人人生の開始まで」の解説
1875年(明治8年)、長崎県壱岐の商家に生まれた。二代目安左エ門の長男で、幼名は亀之助。故郷の印通寺浦は天然の良港をなしていて、安左エ門が生まれたころまでは商業地で、壱岐の首都的存在だった。祖父は京阪神地方との交易、酒造業、呉服・雑貨・穀物の取り扱い、水産業など手広く事業を営んでいた。幼名の亀之助時代の思い出のなかで印象に残るのは祖父母、父母、親戚一統から非常にかわいがられて育ったということだった。 福澤諭吉の『学問のすすめ』に感奮興起し、福澤門に進むことを独りぎめしていた。郷の浦の親戚に預けられて、通っていた第十七高等小学校もあと一年で終えるというころ、この希望は非常に強くなった。 1889年(明治22年)に東京へ出て慶應義塾に入学。遠縁に当たる霊岸島の山内善三郎家に寄寓した。16歳のときには真性コレラにかかり、本所緑町の避病院に入れられることになったが幸いに助かった。 1893年(明治26年)、父(二代目安左エ門)の死で帰郷、家督を相続し、三代目安左エ門を襲名。それまでは、大きな不幸も知らず、順調だっただけに、父の若死は安左エ門にとって腹立たしいほど残念だった。するめ、干しあわびなどの水産物資をつくって中国に輸出することなどを手がけた。自分も持ち船にのって壱岐から博多、長崎、平戸、対馬などにでかけていた。元来松永家は商売のほか土地もかなりあった。土地の管理、漁場経営などには相当手がかかった。そこで安左エ門は酒造業、海産物取り扱い、呉服業などはいっさいやめる決心をした。それらの業は他人に譲渡して、土地だけを確実に継承していくことにした。 21歳の秋再び慶應義塾に戻った。福澤諭吉の朝の散歩にお供をするようになり、諭吉の謦咳に接すると共に、福澤桃介の知遇を得た。卒業まであと一年という1898年(明治31年)、学問に興味が湧かなくなったことを福澤諭吉に告白すると、「卒業など大した意義はない。そんな気持ちなら社会に出て働くがよかろう」と勧められて退学した。福澤の記念帳に「わが人生は闘争なり」と記した。 慶應義塾大学中退後、福澤桃介の紹介で日本銀行に入行した。当時山本達雄総裁の下、日銀幹部ストライキ事件が起こり、東大出身幹部らが一掃され、慶應出身者が用務員から一般職員、幹部人事までを占めた時期にあたるが1年で辞職。その後は福澤と共同で神戸や大阪等で材木商や石炭業を営む。
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