石炭業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 04:48 UTC 版)
後藤象二郎は蓬萊社の名前で1874年(明治7年)11月55万円(内20万円は即納)にて高島炭鉱の払い下げを受けている。高島炭鉱は蓬萊社の経営というよりも後藤個人の経営という面が強かったが、後藤は代金の即納分20万円を用意できずジャーディン・マセソン商会から20万ドル(西南戦争までは1ドル=1円)借り受けている。さらに1875年(明治8年)3月ジャーディン・マセソン商会から40万ドルを借りて排水ポンプや巻揚機械を装備している。炭鉱はある程度順調に出炭するものの工夫48人が死亡するガス爆発事故や他にも火災事故、コレラ発生などがあり、炭鉱事業で特に利益を上げることもできず、蓬萊社の負債を炭鉱事業で穴埋めすることはできなかった。蓬萊社倒産後も後藤はしばらく高島炭鉱を所持し続けるが、結局高島炭鉱経営で後藤が負ったジャーディン・マセソン商会からの総額100万ドルの負債はまったく返せなないままだった。1881年(明治14年)1月、ジャーディン・マセソン商会は後藤に対する利子込の債権110万ドルを放棄、20万ドルの返済で合意し、高島炭鉱はその20万ドルを立て替えた三菱の手に渡る。三菱高島炭鉱の始まりである。
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