1926年のゼネストの鎮圧
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「スタンリー・ボールドウィン」の記事における「1926年のゼネストの鎮圧」の解説
第一次世界大戦後、イギリス石炭業は石炭輸出市場の喪失で不況に陥った。1923年1月のフランス軍・ベルギー軍のルール占領でドイツの石炭輸出が激減したことで一時的に好況を迎えたものの、同年11月に両軍が撤退すると再びイギリスの石炭輸出は激減。坑夫の失業者が増加した(1923年のその失業率は2.9%だったが、1924年6月には17.5%に急増している)。 1925年4月には財務大臣ウィンストン・チャーチルの主導で戦前レートによる金本位制復帰が行われたが、これはポンドの過大評価であり、これにより石炭輸出価格が沸騰し、石炭の海外販路はさらに大打撃を受けた。その結果、坑夫の失業率は急速に増大した。この苦難に炭坑資本家は経営の合理化によって乗り切ろうとし、1925年6月30日と7月1日に坑夫連盟に対して従来の最低賃金と7時間労働制を破棄するとともに、13%から48%までの幅のある賃金切り下げを行うことを通告した。これに坑夫連盟は反発し、炭坑資本家への対決姿勢を示した。賃金低下が他産業にも波及することを恐れた他産業労働者にも反発が広がり、労働組合会議も鉱夫連盟と連帯することを表明し、7月31日深夜以降石炭輸送を全国的にストップすることを決定した。これによりゼネストの危機が生じた。 ボールドウィンはこの威嚇を恐れ、自由党の政治家ハーバート・サミュエルを石炭業に関する王立委員会を設置することを発表した。その審議の間は、坑夫の賃金と労働時間は据え置き、それによって生じる石炭業の赤字は国が補助金で補填することを約した。坑夫連盟もこの政府の提案を受諾したので、ひとまずゼネストの危機は回避された。労働運動側はこれを勝利とみなし、7月31日を「赤い金曜日」と呼んだ。 しかしボールドウィンは労働組合勢力の言い分を受け入れるつもりはなく、この一時沈静化の間を利用して反撃の準備を行った。近い将来予想される労働組合との全面衝突に備え、資源の備蓄、スト破り要因の配置、都市近くに軍隊を駐屯などを着実に進めた。 そして1926年3月に王立委員会は石炭業国有化を拒否し、補助金は打ち切り、賃金切り下げ方針の報告書を発表した。炭坑労働者が反発し、再び全面対決の姿勢を示した。政府と妥協を模索していた右派を含む労働組合会議指導部も5月1日からのゼネストを宣言した。それでも指導部右派は交渉による望みをかけていたが、5月3日にボールドウィン政府は『デイリー・メール』紙の植字工が政府のゼネスト批判の文を掲載しなかったことを理由として交渉を拒否した。5月4日からゼネストが開始され、ゼネスト参加者は280万人に達し、英国の経済活動はあらゆる場所で麻痺した(1926年イギリス・ゼネラルストライキ(英語版))。 ボールドウィンと資本家側は労働組合会議の右派や穏健派の切り崩しを図り、サミュエルは交渉の覚書を組合側に提出した。全国賃金局の設立や補助金延長を謳っていたが、賃金切り下げ方針が盛り込まれており、炭坑労働者は反発。しかし労働組合会議指導部は交渉に入ることを決断し、5月12日にゼネスト中止を指令した。炭坑労働者はその後も孤立して闘争を続けたが、結局は賃金切り下げと労働時間延長を認めることになった。 1927年7月には同情ストの非合法化や政党への寄金規制を定めた労働争議及び労働組合法(英語版)を制定して労働組合の弱体化を図った。これ以降英国社会は労使協調主義による生産拡大追及が顕著となっていく。
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