漁場経営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 00:25 UTC 版)
藤山は海運業に従事していた立場として、北海道の漁業の将来性に着目し、漁場経営も始めた。まず1887年に稚内でニシンの漁場を開き、それを皮切りに漁場の拡大を図った。 翌1888年には北見地方(オホーツク沿岸)への進出を計画し、渡辺兵四郎らと共にコルサコフ方面の漁場探検を試みた。初めての試みのために想像を絶する苦心があり、悪天候により樺太に漂着したが、これを機に樺太沿岸を探検した。この樺太の体験は、藤山が後に樺太で海運や漁業を展開する上で大いに得るところがあったという。 1891年(明治24年)には紋別でサケ、マスの漁場を開設した。1896年(明治29年)後にはさらに斜里と知床にも進出し、サケやマスの漁場を開いた 。 同1896年、藤山の擁する漁場はニシン建網が1400石、サケ漁場が定置網31か統、建物や屋舎は42棟、倉庫31棟、漁船140隻、雇っていた漁夫は500人に及んだ。ニシンについては、1897年頃には宗谷管内だけで45か統を保有していたともいい、全盛期の藤山漁場は北海道トップクラスだったといえる。前述の汽船・小樽丸の建造にも、漁場めぐりや漁場の輸送の便を図ることが狙いにあった。 同1897年頃には、魚族の漸減を察知したことで、経営方針を改革し、これまでの直営場を他に賃貸する方針に変え、直営数を一部減少した。 1906年(明治39年)に樺太の一部が日本領になると、同地の建網業にも手を広げ、漁獲高は8000トンに達した。1908年(明治41年)までに、ニシン17か統、マス3か統の漁場を開いた。 さらに漁獲にも機械化が必要と考えた藤山は、従来の漁獲法を改めて機械化を普及した。このことは明治時代の北海道漁業に大きな変化と、漁獲量の大幅な向上をもたらした。 後志、石狩、宗谷管内に属する漁業家たちは、一丸となって合同漁業株式会社を創立し、その中でも藤山は大株主となった。
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