松前藩御用達から漁場請負(場所請負)
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「西川傳右衛門 (初代)」の記事における「松前藩御用達から漁場請負(場所請負)」の解説
下国安芸の信用を勝ち取った傳右衛門は早々に松前藩御用達となり、千石船・五百石船を建造し自家の船で物産輸送を取り扱うなど一代で松前屈指の豪商になった。下国安芸より『蝦夷の利は海産にあり、奥地に踏み入り漁場を開いて之を内地に輸送すれば、一に国益、二に自家の利なり。』と説かれ、傳右衛門自ら奥地に入り、アイヌ人と接し、『忍路高島両漁場沿革(滋賀大学経済学部附属資料館保管西川傳右衛門家文書)』によると寛文7年(1667年)頃までに高島(現小樽市高島)・忍路(オショロ)の地を選んで漁場を開いたとされる。なお、漁場請負は元文5年(1740年)から宝暦(1755年)の間とする資料もある。いずれにせよ、延宝9年(1861年)の資料によると材木の買い付け等を行い近江に送っており、初代傳右衛門の時には未だ漁場経営は本格的には行われていなかった。 傳右衛門は順次請負漁場を改良し、出店の庶務を整理し、故郷近江に帰っては家政を修め、一代で40数度近江・蝦夷地を往復したとされる。隠居するまで毎年の交易と出店経営も自ら行い、支配人が蝦夷地に置かれたのは漸く2代目傳右衛門の時になってからだった。元禄9年(1696年)初代傳右衛門は隠居し、2代傳右衛門昌興が西川傳右衛門家当主となった。傳右衛門隠居後の元禄14年(1701年)、長年の功に対して松前藩侯より名字帯刀が許され、加えて御先手格二十人扶持の藩士待遇を与えられた。 宝永6年2月(1709年3月)死去した。近江八幡市の円満寺には、初代傳右衛門が奉納した千石船模型と千石船絵馬額が保存されている。
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