松前重義(逓信省工務局長)を懲罰召集
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「東條英機」の記事における「松前重義(逓信省工務局長)を懲罰召集」の解説
また、勅任官たる逓信省工務局長・松前重義を42歳の高齢にもかかわらず(徴召集の年限上限は40歳であったが、昭和18年11月1日法律第110号で改正された兵役法で、上限が45歳に引き上げられた。この改正にあたっての審議日数はわずか三日であった)二等兵として召集し、南方に送った。松前が、技術者を集めて日米の生産力に圧倒的な差があることを綿密に調査し、この結果を軍令部や近衛らに広めて東條退陣を期したためであったとされる。このことについて、高松宮宣仁親王は日記のなかで「実に憤慨にたえぬ。陸軍の不正であるばかりでなく、陸海軍の責任であり国権の紊乱である」と述べている。また、細川護貞は『細川日記』1944年(昭和19年)10月1日において「初め星野書記官長は電気局長に向ひ、松前を辞めさせる方法なきやと云ひたるも、局長は是なしと答へたるを以て遂に召集したるなりと。海軍の計算によれば、斯の如く一東条の私怨を晴らさんが為、無理なる召集をしたる者七十二人に及べりと。正に神聖なる応召は、文字通り東条の私怨を晴らさんが為の道具となりたり」と批判している。 なお、高松宮と細川は東條内閣倒閣工作に深く関与していた反東條派であり、東條の政敵である。倒閣工作に協力していた松前は、彼らから見れば「身内」であった。結局、松前は輸送船団にて南方戦線に輸送された。逓信省が取り消しを要請したものの、陸軍次官・富永恭次は「これは東條閣下直接の命令で絶対解除できぬ」と取り合わなかった。松前は10月12日に無事にマニラに着いたが、松前と同時期に召集された老兵数百人はバシー海峡に沈んだ。ただし松前の召集日は東條内閣倒閣と同日である。また、富永は東條内閣崩壊後の7月28日には早くも人事局長を辞任させられ、8月30日には第四航空軍司令官に転出させられるという状況であり、上記のエピソードは時系列的に疑問があるが、東條内閣が崩壊し、東條派が失脚していく中でも、懲罰召集の犠牲者となった松前に対する召集解除は行われなかった。
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