松前重義を懲罰召集とは? わかりやすく解説

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松前重義(逓信省工務局長)を懲罰召集

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)

東條英機」の記事における「松前重義逓信省工務局長)を懲罰召集」の解説

また、勅任官たる逓信省工務局長松前重義42歳高齢にもかかわらず徴召集の年限上限40歳であったが、昭和18年11月1日法律110号改正され兵役法で、上限45歳引き上げられた。この改正にあたって審議日数はわずか三日であった二等兵として召集し南方送った松前が、技術者集めて日米生産力圧倒的な差があることを綿密に調査し、この結果軍令部近衛らに広めて東條退陣期したためであったとされる。このことについて、高松宮宣仁親王日記のなかで「実に憤慨にたえぬ。陸軍の不正であるばかりでなく、陸海軍責任であり国権紊乱である」と述べている。また、細川護貞は『細川日記1944年昭和19年10月1日において「初め星野書記官長電気局長に向ひ、松前辞めさせる方法なきやと云ひたるも、局長は是なしと答へたるを以て遂に召集したるなりと。海軍計算によれば斯の如く東条私怨を晴らさんが為、無理なる召集をしたる者七十二人及べりと。正に神聖な応召は、文字通り東条私怨を晴らさんが為の道具となりたり」と批判している。 なお、高松宮細川東條内閣倒閣工作深く関与していた反東條派であり、東條政敵である。倒閣工作協力していた松前は、彼らから見れば身内であった結局松前輸送船団にて南方戦線輸送された。逓信省取り消し要請したものの、陸軍次官富永恭次は「これは東條閣下直接命令絶対解除できぬ」と取り合わなかった。松前10月12日無事にマニラ着いたが、松前同時期に召集され老兵数百人はバシー海峡沈んだ。ただし松前召集日東條内閣倒閣同日である。また、富永東條内閣崩壊後の7月28日には早くも人事局長を辞任させられ8月30日には第四航空軍司令官転出させられるという状況であり、上記エピソード時系列的に疑問があるが、東條内閣崩壊し東條派が失脚していく中でも懲罰召集犠牲者となった松前対す召集解除行われなかった。

※この「松前重義(逓信省工務局長)を懲罰召集」の解説は、「東條英機」の解説の一部です。
「松前重義(逓信省工務局長)を懲罰召集」を含む「東條英機」の記事については、「東條英機」の概要を参照ください。

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