松前藩時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 08:04 UTC 版)
ところが、三川は松前藩に「江戸在府での勤務」「外宅」という2条件を出した。やっと決まった仕官先に無茶な要望を出したのは、当時修史事業に携わっていたため遠方の任地に行くことを厭ったこと、また藩邸内に住むといろいろ面倒があると友人の野田笛浦、安積艮斎が助言したからである。この要望は受け入れられ、天保12年まで三川は江戸藩邸で勤務した。ただ、三川は対外問題に強い関心があり、対ロシアの最前線である松前藩に仕官したこと自体は嫌ではなかった。 天保10年、36歳の時に結婚。同年7月21日に時の松前藩主松前良広が病気のため弟の昌広に跡を譲った。天保12年3月5日、三川は昌広の初めてのお国入りに従い、松前に向かった。同年の正月に昌広は藩邸に松崎慊堂、岡本花亭らを招いて三川招聘の謝礼の宴会を行っており、その後も度々慊堂に対する謝礼があったことから見て、この頃は三川と昌広の仲も良かったと思われる。 天保14年正月、表用人に任じられる。また、外国船の到来が多くなったことから松前藩に期待される役割も大きくなってきた。三川自身も弘化3年頃に択捉島に渡り実地検分を行っている。弘化4年には松浦武四郎や頼三樹三郎にも対面している。ところが、この頃から昌広は兄・良広同様の精神病を発病し、藩政は不安定になっていく。更に昌広は女色、酒食にも溺れ、激しく散財するようになり、また家臣にも依怙贔屓をするようになっていった。藩主の凶状に耐えかねた三川は、妻子に遺言し後事を兄2人に託して覚悟の末に諫言を行ったが、逆上した昌広は逆に刀を抜いて三川を殺そうとする始末であった。 嘉永元年、讒言によって三川は松前を追放され、4月に江戸に戻ったが、6月3日に突如罷免され、藩邸からも追放されてしまった。
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