安中藩時代
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嘉永5年4月21日、三川は安中に到着、4月29日に正式に50石高で召し抱えられることになった。当初藩儒兼大目付役所詰となり、嘉永6年2月に大目付見習兼御金奉行、同年5月に格式御近習頭見習格兼軍奉行助勤兼御勝手掛、安政元年9月に領内堕胎取締役、安政2年7月に御手船製造安中物産江戸廻送取計、安政4年に郡奉行となり10石加増と累進した。「名君」と言われた板倉勝明の元での勤務は、松前藩時代とは異なり安定した物であった。 安中藩時代の三川の一大事業が漆園の運営で間地利用を図ったことである。当初はうまく運営されたが、「利益の四分の一を領内窮民救済のための資金とする」という案が、実際の生産者である農民に歓迎されず最終的には失敗した。しかし、その記念碑は現在も安中の新島襄旧宅に残されている。ちなみに三川が藩校で教えた子弟の一人が新島襄である。 文久2年8月15日、安中にて死去。墓所は安中の竜昌寺にある。
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