安五郎の没年月日と墓所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/28 20:16 UTC 版)
「竹居安五郎」の記事における「安五郎の没年月日と墓所」の解説
安五郎の墓所は笛吹市石和町唐柏の常在寺、笛吹市八代町竹居の浄源寺、笛吹市石和町市部の仏陀禅寺の三箇所にある。墓石に刻まれた没年は三箇所の墓所で異なり、常在寺の墓石には嘉永7年(1854年)12月5日、浄源寺の墓石には文久2年(1861年)2月17日、仏陀禅寺の墓石には文久2年10月6日の年記が刻まれている。 『坂田家御用日記』文久2年3月12日条に拠れば、安五郎は同年同日までに石和代官に捕縛され入牢しており、生存が確認され、仏陀禅寺墓石の文久2年10月6日死去が蓋然性の高い説であると考えられている。 一方、常在寺墓石の銘文に拠れば当墓石を建てたのは安五郎の子分石原市五郎であると記され、同墓石が記す嘉永7年(1854年)説は、この頃安五郎は新島を脱出して甲斐に潜伏している時期にあたり、島抜けをした安五郎が役人の追跡をかわすための偽装工作として墓石を建てた可能性が考えられている。 一方、浄源寺墓石の文久2年(1861年)2月17日説は安五郎が捕縛され入牢した年月日であり、入牢したその日を死亡日として判断し記されたものであると考えられている。 仏陀禅寺の墓石は案内板によれば安五郎の墓石は「牢屋に近い臨済宗祥雲山接慶院」に存在し、法名は「心岳宗安禅定門」であったという。その後、接慶院が廃寺となり、1966年(昭和41年)に安五郎の墓石は仏陀禅寺に移され2001年(平成13年)に改修されたという。
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