松前藩領の上知と幕府による直接統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 05:46 UTC 版)
「千島国」の記事における「松前藩領の上知と幕府による直接統治」の解説
第一次幕領期 江戸時代後期、千島国域は東蝦夷地に属していた。南下政策を強力に推し進めるロシア帝国の脅威に備え、寛政11年(1799年)に東蝦夷地は蝦夷奉行直轄の公議御料(幕府直轄領)とされ、津軽藩と南部藩が泊と紗那に勤番所(泊は南部藩のみ)を置き警固を行っていた。蝦夷奉行は後に箱館奉行を経て松前奉行と改称された。文化元年(1804年)には、漂流していた慶祥丸が占守郡域の幌筵島・東浦に漂着した。乗組員の継右衛門ら6人は占守島を経て勘察加に渡り、ペトロパブロフスクで現地に滞在する若宮丸漂流民善六の世話を受けた。翌文化2年(1805年)(旧暦)6月、新知郡域ラショワ島アイヌの有力者マキセン・ケレーコツ(アイヌ名・シレイタ)ら十数名がシベトロに上陸し幕吏に捕らえられ、ロシア人南下の詳細な情報がもたらされた。文化3年(1806年)3月、ラショワ島アイヌたちは択捉島から脱走、関屋茂八郎が南部藩足軽たちとともに追跡し得撫島に上陸。同島はロシア人不在と確認。一方、継右衛門ら慶祥丸漂流民6人は文化2年(1805年)6月にペトロパブロフスクを立ち、途中新知郡域の羅処和島で越冬した後、ラショワ島アイヌのマキセンの助けを借りつつ南下し新知島でアイヌたちと別れ、得撫島を経由し文化3年(1806年)7月27日に会所のある紗那郡域に帰還した。この年以降、幕吏たちが南部・津軽の足軽、通辞、番人、アイヌたちとともに毎年得撫島の見回りを実施。 文化4年(1807年)には文化露寇(フヴォストフ事件)が発生し、択捉場所内保の番屋や紗那の会所などが、ロシア人から攻撃を受けて略奪された。幕吏間宮林蔵もこの事件に巻き込まれている。また、この事件では中川五郎治と佐兵衛がロシア人に拉致され、シベリアに強制連行されている。ロシア帝国政府は不関与であったが、この事件は日露関係を極度に悪化させ、西蝦夷地も幕領化するきっかけとなった。翌文化5年(1808年)以降には、仙台藩が国後と択捉の警固に加わった。 文化8年(1811年)には、鎖国中当時の国後島に、ロシア軍艦ディアナ号の艦長ヴァシーリー・ゴロヴニーン(Василий Головнин)が不法上陸したため、幕府の命で警固に就いていたアイヌと和人が協力してこれを捕縛した。今で言うゴローニン事件である。ディアナ号副長ピョートル・イヴァノヴィチ・リコルド(ロシア語版)(Пётр Иванович Рикорд)は一旦オホーツクに引き返した後、中川五郎治と歓喜丸の漂流民たちとともに国後島に来航したが、幕府からの回答は満足のいくものでなかった上、歓喜丸の水夫1名が逃亡したために交渉は難航した。そのためリコルドは、中川五郎治や残りの歓喜丸漂流民たちを解放する代わりに、近海を航行中であった観世丸を拿捕、高田屋嘉兵衛やアイヌ船員らを拉致しペトロパブロフスクへ強制連行した。このとき、アイヌ船員ら数名は抑留地で命を落とし帰らぬ人となった。事件が解決に向かうのは、文化10年(1813年)5月にディアナ号が国後島に来航し、嘉兵衛ら3名が解放されてからであった。その際に日露間で交渉が行われ、同年9月、リコルドは善六や久蔵らを伴ってディアナ号で箱館に来航し、交渉の末ゴローニンはロシア側に引き渡された。 詳細は「ゴローニン事件」を参照 また文化13年(1816年)6月には、ロシア船パヴェル号が得撫島沖に来航し、占守郡域の春牟古丹島に漂着した永寿丸の乗員と英国船に救助された督乗丸の小栗重吉、音吉、半兵衛ら漂流民計6名をペトロパブロフスクから送還。航海途中、半兵衛が病死したが得撫島に上陸した5名は地元アイヌの案内で択捉島のシベトロ番屋まで帰還(池田寛親『船長日記』)。ゴローニン事件の後、ロシアは通商と国境交渉の目的で漂流民を伴い択捉島に度々来航したため、幕府は択捉島以南を日本領、得撫郡域を漂流民の身柄受取のみおこなう緩衝地帯とし、新知郡域以北をロシア領とする案を回答予定であったが、両国の交渉担当者が約束の時期に落ち合えず結局ロシア側に伝達できなかった。 松前藩復領期 千島国域は文政4年(1821年)に一旦松前藩領に復したが、文政8年(1825年)から天保13年(1842年)まで異国船打払令による砲撃のためロシア船も陸地に近づけなかった。天保7年(1836年)露米会社船は択捉の港に入港できず、越後国岩船郡早川村・五社丸の漂流民を港以外に上陸させた(『天保雑記』)。天保14年(1843年)には越中国長者丸の漂流民6人がペトロパブロフスクから択捉島沖まで送還され、松前藩士が船でロシア船に接近し引取った(『蕃談』・『時槻物語』)。その後も弘化2年(1845年)に露米会社船が択捉島に来航し、交易を要求した。嘉永2年(1849年)閏4月29日から6月10日まで、松浦武四郎が国後・択捉を訪れている。嘉永7年(1854年)加陽・豊島 毅らによって千島列島、全樺太島やカムチャッカ半島までも明記した「改正蝦夷全図」が作成された。 第二次幕領期 安政元年(1854年)には日露和親条約(不平等条約のひとつ)により、択捉島と得撫島の間が国境とされ、道東アイヌの漁場だった得撫郡域を喪失。翌安政2年(1855年)には択捉島以南は再び公議御料となり、仙台藩が国後島の泊と択捉島の振別に出張陣屋を築き警固をおこなった。安政6年(1859年)の6藩分領以降は紗那郡域(仙台藩警固地)を除き、ほぼ全域が仙台藩領となった。このとき、年数が経ち痛んだカムイワッカオイの丘の「大日本恵登呂府」の標柱の代わりに、仙台藩士によって「大日本地名アトイヤ」と書き改めた標柱が立てられた。また、国後や択捉にはストーブも配置された。慶応4年4月12日、箱館裁判所(閏4月24日に箱館府と改称)の管轄となった。
※この「松前藩領の上知と幕府による直接統治」の解説は、「千島国」の解説の一部です。
「松前藩領の上知と幕府による直接統治」を含む「千島国」の記事については、「千島国」の概要を参照ください。
- 松前藩領の上知と幕府による直接統治のページへのリンク