松前藩や江戸幕府による北蝦夷地検分
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「久春内郡」の記事における「松前藩や江戸幕府による北蝦夷地検分」の解説
松前藩領時代は、田沼意次治世の天明6年(1786年)には普請役下役の大石逸平が調査のためクシュンナイまで踏査。これは、赤蝦夷風説考の影響を受け実施されたものである。寛政2年(1790年)松前藩の藩士高橋清左衛門(壮四郎)は場所請負人の船で樺太に赴き、久春内に到達(『村山家文書』)、翌年西岸のライチシカ(三浜村来知志)北方のコタンウトル(鵜城郡鵜城村古丹)まで踏査した。次いで寛政四年(1792)には最上常矩(徳内)により、樺太西岸のクシュンナイまで踏査。 第一次幕領期では、文化5年(1808年)と文化6年(1809年)、松田伝十郎と間宮林蔵による樺太北部の踏査が行われ、林蔵は久春内を経て小田洲(三浜村)に、伝十郎はライチシカにそれぞれ立ち寄っている。 第二次幕領期では安政元年(1854)6月、目付堀利照・勘定吟味役村垣範正らが西は来知志湖南隣のライチシカまで調査した。慶応元年(1865年)樺太詰めの箱館奉行支配在住・岡本監輔は足軽西村伝九郎とともに北知床岬を廻り樺太北岸を周廻。樺太北端のガオト(鵞小門)岬に達し、西岸経由でクシュンナイに帰着。
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松前藩や江戸幕府による北蝦夷地検分
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「元泊郡」の記事における「松前藩や江戸幕府による北蝦夷地検分」の解説
第一次幕領期の文化5年(1808年)、間宮林蔵は樺太検分のため渡樺し元泊郡域も踏査。林蔵は、北知床半島からの帰り、樫保に立ち寄っている。 幕末の安政元年(1854年)6月、普請役間宮鉄次郎が東浦タライカ(多来加)まで調査した。結果、アイヌはタライカ(敷香郡多来可村多来加)まで居住しているが、公儀の撫育、即ち会所(運上屋)にておこなわれるオムシャでの役蝦夷の任命、周辺の役蝦夷からの掟書きの伝達(法の適用)や住民の宗門人別改帳(戸籍)の作成、漁場などでの就労、御救米の支給(介抱)など、樺太東岸のアイヌ居住地ではフヌフ(元泊村班伸)まで、何らかの形で撫育や介抱、今で言う「日本の統治」が及んでいることが確認された。フヌフより北に住む者は風俗が少し異なり、「タライカ人」或いは「多来加アイヌ」と記述する文献も存在する。 弘化3年(1846年)と、安政4年(1857年)の2回、松浦武四郎も訪れた。武四郎は概ね大泊国境線の前身にあたる道沿いに旅し、元泊郡域では幕吏として訪れた安政4年、往路は元泊村のフヌフ(班伸)とカシホ(樫保)、復路は帆寄村のマクンコタン(馬群潭)に宿泊している。この調査の時点では、ロシア人は未到達・否混住である。 『鈴木重尚 松浦武四郎 唐太日記』(嘉永7年(1854年)刊行)に弘化3年当時の状況の一部が書かれている。 帆寄村トッソ(突阻)に達した 北蝦夷餘誌(安政3年、1856年の状況) 帆寄村チカヘロシナイ(近幌)・・・アイヌの家2軒 マクンコタン(馬群潭)・・・サケ、マス、サクラマス多く、フヌフからイウウノの倅キンロカリを連れ出稼ぎ 元泊村フヌフ(班伸)・・・人家4軒、鰊とアザラシ多い。ここまでトマリ(クシュンコタン、大泊郡大泊町楠渓町)に属す。 この奥はタライカに属す。・・・少し風俗が違う、着ている物も三靼の古着、トドの皮で葺いた屋根カシホ(樫保)・・・川の西岸に人家3軒。 ホロナイボ(幌内保)・・・ホタテや法螺貝の化石
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松前藩や江戸幕府による北蝦夷地検分
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「散江郡」の記事における「松前藩や江戸幕府による北蝦夷地検分」の解説
文化5年(1808年)間宮林蔵が踏査、東岸は散江郡域のシャクコタン、北知床半島の散江村北船越辺りまで達した。帰路は遠岸に立寄った。 慶応元年(1865年)樺太詰めの箱館奉行支配在住・岡本監輔は足軽西村伝九郎とともに北知床岬を廻り樺太部を巡検。樺太北端のガオト(鵞小門)岬に達し「大日本領」と記した標柱を建て、間宮海峡沿いで西岸のクシュンナイ(久春内郡久春内村)に帰着。
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松前藩や江戸幕府による北蝦夷地検分
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「鵜城郡」の記事における「松前藩や江戸幕府による北蝦夷地検分」の解説
松前藩の藩士高橋清左衛門(壮四郎)は、寛政二年(1790年)樺太に赴き、西岸のライチシカ(久春内郡三浜村来知志)北方のコタンウトル(鵜城村古丹)まで踏査した(『村山家文書』)。 文化5年(1808年)から文化6年にかけ、間宮林蔵が松田伝十郎とともに北樺太や間宮海峡周辺を踏査 する際立ち寄った。林蔵は年をまたぎ、2回に渡り調査を行った。 安政元年(1854年)6月に、幕府の支配勘定上川侍次郎が検分した際、西海岸では北緯50度線のすぐ北側にあるホロコタン(幌渓)まで、何らかの形で撫育や介抱をはじめとする行政(今で言う日本の統治)が及んでいることが確認されている。
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松前藩や江戸幕府による北蝦夷地検分
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「栄浜郡」の記事における「松前藩や江戸幕府による北蝦夷地検分」の解説
当時、北緯50度線以南のカラフト南部は「初島」と呼ばれた。享和元年(1801年)に中村小市郎(意積)が、東浦(東岸)のナイブツ(栄浜村内淵)まで踏査(『唐太雑記』)。 第一次幕領期、文化5年(1808年)樺太検分のため、間宮林蔵も渡樺し栄浜郡域も踏査。林蔵は、南のトンナイチャ方面から栄浜郡域に入り、栄浜村の押江と内淵、相浜や小田寒に宿泊。その後、さらに北へ向けて踏査した。 また、幕末の安政元年(1854年)6月、目付堀利照・勘定吟味役村垣範正らが東はオハコタン(白縫村箱田)まで調査した。 弘化3年(1846年)と安政4年(1857年)の2回、松浦武四郎も訪れた。武四郎は栄浜中知床岬線(弘化3年のみ)、大泊国境線(栄浜以南のシュシュヤ越は安政4年のみ)、真縫久春内線の前身にあたる道沿いに旅し、栄浜郡域内では1回目栄浜村のイヌヌシナイ(犬主)、ヲシヨエコタン(押江)、ナイブツ(内淵)、白縫村のマトマナイ(真苫)やマーヌイ(真縫)など、幕吏として訪れた2回目はタコイ(多古恵、落合町大谷)、栄浜村のナイブツ、ヲタサン(小田寒)、シラ`ヲロ(白縫村白浦)に宿泊。当時の様子は、後に刊行された書籍に記述あり。 ○『鈴木重尚 松浦武四郎 唐太日記』(嘉永7年(1854年刊行)に、弘化3年当時の状況の一部が記述が見える。 落合町・・・鈴木重尚が通ったシュシュヤ越(大泊国境線の前身)ケナシ・・・アイヌの小屋1軒 フルシチャン・・・漁をする小屋1軒 トノシチヤャシ・・・アイヌの家1軒、夫婦でクシュンコタン(大泊郡大泊町楠渓町)へ出稼ぎ タコエ(多古恵、大谷)・・・小使サーブニアイノの家 シアンチャ・・・アイヌの家2軒 栄浜村ナエブツ(内淵)・・・アイヌの家 アイ(相浜)・・・アイヌの小屋 ヲタサン(小田寒)・・・乙名ヲマシネの家 白縫村キトウシ・・・マトマナイ(真苫)川を過ぎ6キロの場所、アイヌの家 シララヲロ(白浦)・・・人家12~13軒、若いアイヌは運上屋(クシュンコタン)へ出稼ぎに行く マーヌイ(真縫)・・・人家。上川伝次郎がクシュンナイ川上流の分水嶺チベアケ(カモイコタン)に打った、西岸との境界票がある オハコタン(箱田)・・・神社 ホウコタン・・・土地(チカヘロシナイ、元泊郡帆寄村近幌)の人の小屋 ○北蝦夷餘誌(安政3年、1856年の状況) 栄浜村ナイフツ(内淵)・・・宿舎、アイヌの家6軒(若い者は稼ぎに出ていた) 白縫村シラ`ヲロ(白浦)・・・この島で一番大きな家に招かれた ヲハゴタン(箱田)・・・鹿島神社
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