松前藩や江戸幕府による北蝦夷地検分とは? わかりやすく解説

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松前藩や江戸幕府による北蝦夷地検分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 14:20 UTC 版)

久春内郡」の記事における「松前藩や江戸幕府による北蝦夷地検分」の解説

松前藩時代は、田沼意次治世天明6年1786年)には普請役下役大石逸平が調査のためクシュンナイまで踏査。これは、赤蝦夷風説考影響を受け実施されたものである寛政2年1790年松前藩藩士高橋清左衛門(壮四郎)は場所請負人の船で樺太に赴き、久春内到達(『村山家文書』)、翌年西岸のライチシカ(三浜村来知志)北方のコタンウトル(鵜城郡鵜城村古丹)まで踏査した。次いで寛政四年(1792)には最上常矩(徳内)により、樺太西岸クシュンナイまで踏査第一次幕領期では、文化5年(1808年)と文化6年(1809年)、松田伝十郎間宮林蔵による樺太北部踏査が行われ、林蔵久春内経て小田洲(三浜村)に、伝十郎はライチシカにそれぞれ立ち寄っている。 第二次幕領期では安政元年(1854)6月目付堀利照・勘定吟味役村垣範正らが西は来知志湖南隣のライチシカまで調査した慶応元年1865年樺太詰め箱館奉行支配在住岡本監輔足軽西村九郎とともに北知床岬廻り樺太北岸を周廻。樺太北端のガオト(鵞小門)岬に達し西岸経由クシュンナイ帰着

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松前藩や江戸幕府による北蝦夷地検分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 05:48 UTC 版)

元泊郡」の記事における「松前藩や江戸幕府による北蝦夷地検分」の解説

第一次幕領期の文化5年1808年)、間宮林蔵樺太検分のため渡元泊郡域も踏査林蔵は、北知床半島からの帰り保に立ち寄っている。 幕末安政元年(1854年)6月普請役間宮鉄次郎東浦タライカ(多来加)まで調査した結果アイヌはタライカ(敷香郡多来可多来加)まで居住しているが、公儀撫育、即ち会所運上屋)にておこなわれるオムシャでの役蝦夷任命周辺役蝦夷からの掟書きの伝達(法の適用)や住民宗門人別改帳戸籍)の作成漁場などでの就労御救米支給介抱)など、樺太東岸アイヌ居住地ではフヌフ(元泊村班伸)まで、何らかの形で撫育介抱、今で言う「日本の統治」が及んでいることが確認された。フヌフより北に住む者は風俗が少し異なり、「タライカ人」或いは「多来加アイヌ」と記述する文献存在する弘化3年1846年)と、安政4年1857年)の2回、松浦武四郎訪れた。武四郎概ね大泊国境線前身にあたる道沿い旅し元泊郡域では幕吏として訪れた安政4年往路元泊村のフヌフ(班伸)とカシホ(保)、復路帆寄村のマクンコタン(馬群潭)に宿泊している。この調査時点では、ロシア人未到達・否混住である。 『鈴木重尚 松浦武四郎 唐太日記』(嘉永7年1854年刊行)に弘化3年当時の状況一部書かれている帆寄村トッソ(突阻)に達した 北蝦夷餘誌(安政3年1856年状況帆寄村チカヘロシナイ(近幌)・・・アイヌの家2軒 マクンコタン(馬群潭)・・・サケマスサクラマス多く、フヌフからイウウノの倅キンロカリを連れ出稼ぎ 元泊村フヌフ(班伸)・・・人家4軒、アザラシ多い。ここまでトマリ(クシュンコタン、大泊郡大泊町渓町)に属す。 この奥はタライカに属す。・・・少し風俗が違う、着ている物も三靼の古着トドの皮で葺いた屋根カシホ(保)・・・川の西岸人家3軒。 ホロナイボ(幌内保)・・・ホタテ法螺貝化石

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松前藩や江戸幕府による北蝦夷地検分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 04:17 UTC 版)

散江郡」の記事における「松前藩や江戸幕府による北蝦夷地検分」の解説

文化5年1808年間宮林蔵踏査東岸散江郡域のシャクコタン、北知床半島散江村船越辺りまで達した帰路は遠岸に立寄った慶応元年1865年樺太詰め箱館奉行支配在住岡本監輔足軽西村九郎とともに北知床岬廻り樺太部を巡検樺太北端のガオト(鵞小門)岬に達し大日本領」と記した標柱を建て、間宮海峡沿いで西岸クシュンナイ久春内郡久春内村)に帰着

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松前藩や江戸幕府による北蝦夷地検分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 05:49 UTC 版)

鵜城郡」の記事における「松前藩や江戸幕府による北蝦夷地検分」の解説

松前藩藩士高橋清左衛門(壮四郎)は、寛政二年(1790年樺太に赴き、西岸のライチシカ(久春内郡三浜村来知志)北方のコタンウトル(鵜城村古丹)まで踏査した(『村山家文書』)。 文化5年1808年)から文化6年にかけ、間宮林蔵松田伝十郎とともに北樺太間宮海峡周辺踏査 する際立寄った林蔵は年をまたぎ、2回に渡り調査行った安政元年(1854年)6月に、幕府支配勘定上川次郎検分した際、西海岸では北緯50度線のすぐ北側にあるホロコタン(幌渓)まで、何らかの形で撫育介抱はじめとする行政(今で言う日本の統治)が及んでいることが確認されている。

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松前藩や江戸幕府による北蝦夷地検分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 05:52 UTC 版)

栄浜郡」の記事における「松前藩や江戸幕府による北蝦夷地検分」の解説

当時北緯50度線以南カラフト南部は「初島」と呼ばれた享和元年1801年)に中村小市郎(意積)が、東浦東岸)のナイブツ栄浜村内淵)まで踏査(『唐太雑記』)。 第一次幕領期、文化5年1808年樺太検分のため、間宮林蔵も渡栄浜郡域も踏査林蔵は、南のトンナイチャ方面から栄浜郡域に入り栄浜村の押江と内淵相浜小田寒に宿泊その後、さらに北へ向けて踏査した。 また、幕末安政元年(1854年)6月目付堀利照・勘定吟味役村垣範正らが東はオハコタン(白縫村箱田)まで調査した弘化3年1846年)と安政4年1857年)の2回、松浦武四郎訪れた。武四郎栄浜中知床岬線弘化3年のみ)、大泊国境線栄浜以南のシュシュヤ越は安政4年のみ)、真縫久春内線前身にあたる道沿い旅し栄浜郡域内では1回目栄浜村のイヌヌシナイ(主)、ヲシヨエコタン(押江)、ナイブツ内淵)、白縫村のマトマナイ(真)やマーヌイ(真縫)など、幕吏として訪れた2回目はタコイ(多古恵、落合町大谷)、栄浜村ナイブツ、ヲタサン(小田寒)、シラ`ヲロ(白縫村白浦)に宿泊当時の様子は、後に刊行され書籍記述あり。 ○『鈴木重尚 松浦武四郎 唐太日記』(嘉永7年1854年刊行)に、弘化3年当時の状況一部記述見える。 落合町・・・鈴木重尚が通ったシュシュヤ越(大泊国境線前身)ケナシ・・・アイヌの小屋1軒 フルシチャン・・・漁をする小屋1軒 トノシチヤャシ・・・アイヌの家1軒、夫婦でクシュンコタン(大泊郡大泊町渓町)へ出稼ぎ タコエ(多古恵、大谷)・・・小使サーブニアイノの家 シアンチャ・・・アイヌの家2軒 栄浜村ナエブツ(内淵)・・・アイヌの家 アイ相浜)・・・アイヌ小屋 ヲタサン(小田寒)・・・乙名ヲマシネの家 白縫村キトウシ・・・マトマナイ(真)川を過ぎ6キロの場所、アイヌの家 シララヲロ(白浦)・・・人家1213軒、若いアイヌ運上屋(クシュンコタン)へ出稼ぎに行く マーヌイ(真縫)・・・人家上川伝次郎クシュンナイ川上流の分水嶺チベアケ(カモイコタン)に打った西岸との境界票がある オハコタン(箱田)・・・神社 ホウコタン・・・土地(チカヘロシナイ、元泊郡帆寄村近幌)の人の小屋北蝦夷餘誌(安政3年1856年状況栄浜村ナイフツ(内淵)・・・宿舎アイヌの家6軒(若い者稼ぎ出ていた) 白縫村シラ`ヲロ(白浦)・・・この島で一番大きな家に招かれた ヲハゴタン(箱田)・・・鹿島神社

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