松前藩、蝦夷地への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:38 UTC 版)
「唐物抜荷事件」の記事における「松前藩、蝦夷地への影響」の解説
幕府は天保6年(1835年)末の段階で、薩摩藩とともに松前藩にも抜荷を取り締まるよう通達した。松前藩への通達では、本来、中国輸出用として長崎へ送るべき昆布や干アワビ、煎ナマコなどが、薩摩や越後に抜荷されているとの風聞があると指摘した上で、これら俵物は必ず長崎会所に販売すべきであり、他への密売は厳禁であることを松前藩領、蝦夷地へも周知するようにとの内容であった。 文政4年(1821年)、松前、蝦夷地は幕府直轄地から松前藩の領地へと復帰した。しかし幕府側は松前藩の統治能力に疑問を抱いていた。具体的には特権商人と松前藩側と癒着、異国船に対する警備体制の不備、そしてアイヌに対する保護政策の欠如が問題視され、再度の蝦夷地上知論が出されていた。 このような中で発生した抜荷事件は、幕府内の上知案をがより強まることに繋がった。川村修就は天保12年(1841年)11月、関係者からの事情聴取や現地報告をもとに、勘定奉行梶野良材と連名で、蝦夷地上知に関する提案、「初前蝦夷地之儀ニ付御内々申上候書付」を勘定奉行土岐頼旨らに行った。川村と梶野は若年の藩主続きで松前家の蝦夷地支配は行き届かず、商人との癒着が顕著であると指摘した上で、取り締まりが不徹底で抜荷が公然と行われており、さらにはアイヌに対する対応が劣悪で人口減を引き起こしているとした。このような情勢では清がきちんとアヘンを取り締まって来なかったことがアヘン戦争の原因となったように、異国との不測の事態が生じかねないとして、新潟のような枝葉の地ではなく、蝦夷地こそ上知を行い、きちんとした統治体制を整えるべきであると主張した。そして川村らは異国境の取締りのためには文政4年(1821年)以前のように蝦夷地全体の上知が最も望ましいとしながらも、箱館から東蝦夷地、そして国後島、択捉島を上知して松前家には陸奥に代知を与えるという次善の策について、実際に東蝦夷地を上知した場合の必要人員、運営体制、警備体制、そして財政上の収支の見込みまで算出して提示した。 結局、川村と梶野の意見は、統治に問題があるのは確かではあるが、いったん松前家領に復帰すると幕府が決定した蝦夷地を再び取り上げるのは、徳義の問題となって幕府の威信を落とすことに繋がり、また幕府直轄地として防衛体制を充実するだけの財政負担に耐えられないとの反対意見により、採用されることはなかった。
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