松前藩との戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 11:06 UTC 版)
蝦夷地を本拠とする松前藩は、家老・松前勘解由の下、新政府に恭順を示す一方で奥羽越列藩同盟にも参加する日和見策を執っていたが、7月28日に尊王派の正義隊によるクーデターが発生し、新政府軍に付いていた。旧幕府軍は松前藩に対して降伏勧告の使者を送るが殺され、戦うことを決意する。 10月27日、土方歳三を総督として彰義隊・額兵隊・衝鋒隊などからなる700名が松前城に向けて出陣。11月1日に知内で宿営中に松前藩兵の奇襲を受けるが撃退し、11月5日には松前城に到達した。その間、11月1日に蟠竜が松前を砲撃している。 松前城は既に10月28日、藩主松前徳広が内陸の館城に移動しており寡兵しかおらず、搦手門から攻撃された城兵は城門を開いては大砲を発射しまた閉じることを繰り返す守備を行ったが、数時間で落城。松前兵は城下に火を放ち、江差方面へ敗走した。 11月12日、旧幕府軍は星恂太郎率いる額兵隊を先鋒とする500名が松前から江差に向けて進撃。途中大滝陣屋を陥落させ、15日、江差に迫ると、すでに松前兵は敗走、江差攻略の支援に来ていた開陽を中心とする海軍によって無血占領されていた。しかし、この夜、天候が急変し、風浪に押されて開陽は座礁する。箱館から回天と神速丸が開陽救出のために江差に到着したが、神速丸も座礁。為す術なく総員退艦した開陽は数日後に沈没。これにより旧幕府軍は制海権の維持が困難となり、新政府軍の蝦夷地上陸を許すことになる。 他方、11月10日、松岡四郎次郎が率いる一聯隊など500名が五稜郭を発ち、二股を経て、松前藩主が拠っていた館城攻略に向かった。11月15日に館城は落城するも、藩主は11月12日に館城を退去、松前藩領北端の熊石へ退いていた。22日、熊石に到着すると、藩主は君臣男女60余名とともに船で弘前藩へ逃亡した後だった。残された松前藩士約300名が一聯隊に投降。これにより蝦夷地平定は完了した。
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