大日本地名アトイヤ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 18:13 UTC 版)
「大日本恵登呂府」の記事における「大日本地名アトイヤ」の解説
カモイワッカオイを含む地域は安政6年(1859年)以降、仙台藩の警護するところとなったが、この時、藩士のなかの有志が「大日本地名アトイヤ」と書いた標柱を建てたといわれている。これについて、重田定一は「アトイヤ」なる地名は国後島にもあり、この標柱は国後島に建てられたものではないかという説を唱えた。河野常吉はこれに対し、アトイヤの地名は択捉島のカモイワッカ東方にもあり、両者は近接するとはいえ、カモイワッカは「神の水」、アトイヤは「渡海場」(ないし「日和待ち」)を意味する別の地名であることを示し、これを批判している。いずれにせよ、1875年(明治8年)の樺太千島交換条約によって千島全島が日本の領土となると、翌1876年(明治9年)、当地を巡察した時任為基(薩摩藩出身)はその帰途、「大日本地名アトイヤ」の標柱を持ち帰ったといわれる。
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