栖原屋歴代当主とは? わかりやすく解説

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栖原屋歴代当主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/08 15:14 UTC 版)

栖原角兵衛」の記事における「栖原屋歴代当主」の解説

初代 1601年慶長6年) - 1673年3月8日寛文13年1月20日1615年元和元年)、紀伊国有田郡吉川村から栖原転居し、後に当地の名をとって屋号とする。 房総半島での漁業経営を手がけた。 2代目 1644年正保元年) - 1706年11月17日宝永3年10月13日漁業経営続け一方で元禄年間には江戸深川薪炭木材問屋始める。 3代目 1685年貞享2年) - 1734年1月25日享保18年12月21日漁業から撤退し木材商売中心とする。宝暦年間には陸奥国下北大畑村支店設け桧山産の木材取り扱うようになる4代目 詳細不詳5代目(茂勝) 1731年享保16年) - 1793年10月23日寛政5年9月19日1765年明和2年)、松前藩渡航し小松前町支店開設漁業経営再開するとともに蝦夷本州交易手がけるうになる6代目(茂則) 1753年宝暦3年) - 1817年10月16日文化14年9月6日場所請負人となる。1786年天明6年)にテシホ・テウレ・ヤンゲシリを、翌1787年天明7年)にはトママイ・ルルモッペを請け負った7代目信義1780年安永9年) - 1851年8月21日嘉永4年7月25日1806年文化3年)、石狩13場所のうち5場所を請け負うが、1815年文化12年)に返上する。代わって同年には根室所を請け負っているが、これも2年後返上した一方1809年文化6年)に伊達林右衛門共同請け負った北蝦夷地樺太)は、その後長く1875年明治8年)まで経営続けることになる。 1919年大正8年)、従五位追贈された。 8代目(茂信) 1808年文化5年) - 1854年11月12日嘉永7年9月22日1841年天保12年)、伊達林右衛門とともに択捉島漁場経営請け負う9代目(茂寿) 1812年文化9年) - 1857年2月7日安政4年1月13日1855年安政2年)、松前藩の沖ノ口収納取扱方に就任する10代目(寧幹) 1836年天保7年) - 1918年大正7年1860年万延元年)、天塩天売焼尻苫前留萌庄内藩となって以降も、引き続き経営任せられる1881年明治14年)、北村から栖原改姓する。

※この「栖原屋歴代当主」の解説は、「栖原角兵衛」の解説の一部です。
「栖原屋歴代当主」を含む「栖原角兵衛」の記事については、「栖原角兵衛」の概要を参照ください。

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