旧留萌佐賀家漁場
旧留萌佐賀家漁場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 14:48 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動![]() | この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。2020年11月) ( |
座標: 北緯43度54分49秒 東経141度37分03秒 / 北緯43.91366758度 東経141.61751178度
旧留萌佐賀家漁場(きゅうるもいさがけぎょば)は、北海道留萌市礼受町にある漁場跡。1997年3月11日、漁場施設のあるエリアを中心に国史跡に指定された。現在は全域が国史跡となっており、また近代化産業遺産でもある。漁業は、近世〜明治に特に栄え、北海道の産業を支えるうえで欠かせない存在であった。そのような北海道の日本海沿岸における漁業形態の発展およびその歴史などを強く物語るのがこの漁場跡である[1]。
歴史
北海道の日本海側、江差・寿都・余市・留萌等の沖合は、江戸時代から蝦夷地有数の漁場としての役割を果たした地域であり、特に江戸時代後期ごろから、鰊漁の漁場として繁栄した。日本海沿岸に漁場の施設が多数できたのは、このためである[1]。
慶長時代、留萌場所(場所=松前藩が蝦夷地経営のために設定した交易場)が、松前氏一族の知行所として設置され、後に松前藩士工藤家により世襲された。18世紀後期からは藩主の直領となり、場所請負で漁業がなされている[1]。
1844年、佐賀家が留萌場所に越年者を設け、で漁場を開始。陸奥国南部田名部領内の下風呂村(現・青森県下北郡風間浦村下風呂)に住居を置いた。代々漁業・海運業が中心で、蝦夷地とも交渉し、同年にい7代佐賀清右衛門は平之丞(8代)を留萌場所の礼受に赴かせて漁場の開設に成功した。佐賀家は、松前の田中藤左衛門の屋号「因」を使用していた。これは、場所請負制下で漁場を行う場合、松前の人別であることの証明が必要であったことから、田中藤左衛門名義を代用したことによる。佐賀家は年間漁業の管理を行い、1857年に留萌場所の出稼人所有の鰊釜の約1.5割、1863年には留萌場所の出稼人所有の建網数の約1割を占め、大規模経営の実現に成功した。請負人を除けば最大の漁業経営者となった。蝦夷地案内記録によれば、鮑串貝・魚油・いりこ・鰊などの海産物が産された[1]。
しかし1869年に政府は場所請負制を廃止。開拓使は1876年に鰊漁場を開放し営業を自由化させるが、江戸時代以来の請負人等有力な経営者は、その資本力を武器に経営を発展を実現した。1887年、鰊建網4統、鮭建網2統、鱒建網2統が佐賀家の所有となった。これは、留萌では旧請負人栖原家に次ぐ経営規模で、旧出稼人としては最大級である[1]。
鰊漁の利益は1897年頃までは順調であったが、同年代末から減少しはじめた。また、明治時代末期から大正時代初頭には豊漁となったこともあったが、その後は減少し続け、1957年に完全に停止し、佐賀家は漁場を中断せざるを得なくなった[1]。
この漁場跡は、干場として利用された母屋(番屋)・トタ倉(製品保管庫、明治36年造)・船倉・網倉・ローカ(一時保管庫)・稲荷社の6棟の建物が現存する。一部改造された母屋は典型的な平入の番屋建物であり、中央に土間トオリがある。そこを挟んで右側の経営者の居住区、左手の船頭・ヤン衆等労働者の居住区に分かれている。ローカ付近には、鰊粕製造の釜場跡、前浜には船着場跡がある。トタ倉等には豊富な漁撈資料が、佐賀家には多数の文書が保存されているため、貴重なものである[1]。
脚注
- 旧留萌佐賀家漁場のページへのリンク