野坂家
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(鳥取県米子市法勝寺町) 家系 米子で蠟油の取り扱い業者としては唐櫛屋(益尾)、山形屋(上田)、油屋(野坂)などが有名であった。 父・茂三郎(鳥取県平民、呉服商、人参製造・米綿仲買商、大地主、実業家、政治家) 1861年(文久元年)2月生 - 1923年(大正12年)5月没 父茂三郎は、明治期における米子商人を代表するひとりだが、商売で才腕をふるう一方道楽に凝り、政治や事業に私財を投じた。1891年(明治24年)米子商工会議所が設立されると副会頭に就任、初代坂口平兵衛などと組んで各種事業の近代化に画策した。1896年(明治29年)9月郡会議員に選出され、1898年(明治31年)3月実施された第5回総選挙で第三区から衆議院議員に当選した。 『明治人名辞典Ⅱ 下巻』(底本・『日本現今人名辞典(明治三三年)』) のノ十によると、「君は鳥取縣の人にして油屋と稱し人参製造代辧業兼呉服太物商を營み方今株式會社米子銀行及び同中國貯蓄銀行取締役、同米子米綿取引所理事等の任に在り(所六六圓餘、營一三七圓餘伯耆國西伯郡米子町法勝寺町)」。 野坂寛治によると、「ころは明治三十一年、衆議院総選挙に父が立候補して、美事かどうかわからぬがともかく当選した。所属政党は政友会の前身自由党であった。拙宅の記録によると買収も併せておよそ三千余百円を要し、更に私事に渡るが、その費用を祖父が出さないので、外祖父の村上常三翁が祖父から借金して、それを聟の父に回してやる実に美しい間柄で、その金が倅の選挙費であることを百も承知の上で、父に当らず母に当り散らしたから、時々母はチクチク皮肉られる祖父の言葉に、目を泣きはらしたのを何の事やら知らずに、祖父は変な奴と思った事も一再でなかった。とにかく祖父の野暮に比べて、外祖父は鹿島家の出である故もあって風雅人であり、特に村上に行く度にうまい菓子をくれた嬉しさは、七十近くになってなお忘れぬ。」という。 母・たみの(鳥取県平民、村上常三二女) 1868年(明治元年)8月生 - 没 弟 三郎(文筆業) 1899年(明治32年)8月生 - 没米中を経て慶應義塾大学経済学部卒業。時事新報入社。1936年(昭和11年)退社。翌1937年(昭和12年)東宝映画会社入社。戦後の1948年(昭和23年)ごろ同社をやめて東宝教育映画に移ったが、この会社は2年くらいでつぶれ、以後定職につかず。 淳蔵 1892年(明治25年)2月生 - 没 妹(元島根県松江市教育委員長、松江市議会議長松本美行の妻) 妻・のぶ(島根県平民、石橋孫八孫) 1895年(明治28年)9月生 - 没 叔父・野坂康二(実業家) 伯母・かつの(第五代米子町長杵村源次郎の妻) 野坂人參会社 野坂寛治によると、「野坂人參会社の松は、井田医院の近くにヨゼンをたもつ。わびすけ椿のいいのは、遠の昔に枯れにけった。拙家で営業した薬用人參は、池田藩の業を引継いだのか、今一代あってそれを続けたのか、判然しないが時期になると荒くれ男、美しいのやそれ程でない娘や古娘が、昼夜入り乱れて洗ってヒゲを落して、蒸して乾して、歌って騒いだ。(中略)人參畑は東伯・西伯・日野・能義・八束の各郡に及んでいて、栽培後四年目毎に掘って製造にかかり、ここで干しあげたのを法勝寺町の宅に持帰って、磨いて袋に詰めて箱にして、神戸で取引した。」という。
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野坂家
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(鳥取県米子市法勝寺町、米子市東倉吉町、米子市角盤町、米子市錦町、米子市義方町) 野坂家は米子・法勝寺町の商家だった。屋号は油屋。米子で蠟油の取り扱い業者としては唐櫛屋(益尾)、山形屋(上田)、油屋(野坂)などが有名であった。曽祖父野坂吉五郎(金銭貸付業)は、中国貯蓄銀行頭取、衆議院議員などをつとめた野坂茂三郎の弟。 祖父野坂康久は、酒造りをしていた稲田家から野坂家へ養子に来た。米子市東倉吉町で洋食のレストラン「十字屋」を経営、市会議員もつとめた。 伯父野坂一郎、父陞三はそろって無線技師で、ラジオ山陰(現山陰放送)につとめた。 父陞三はBSS企画社長になった。
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野坂家
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(鳥取県米子市法勝寺町、米子市東倉吉町、米子市角盤町、米子市錦町、米子市義方町) 野坂家は米子・法勝寺町の商家だった。屋号は油屋。米子で蠟油の取り扱い業者としては唐櫛屋(益尾)、山形屋(上田)、油屋(野坂)などが有名であった。 祖父・吉五郎(実業家、政治家、地主、元中国興業銀行常務取締役、元米子町会議員) 慶応2年(1866年)9月 - 没 父・康久(実業家、政治家) 明治22年(1889年)6月生 - 没 母・幹代 大伯父・茂三郎(鳥取県平民、呉服商、人参製造・米綿仲買商、実業家、政治家、大地主) 文久元年(1861年)2月生 - 大正12年(1923年)5月没 大叔父・康二(実業家) 明治10年(1877年)4月生 - 没 妻(島根県、島田伊一三女) 長男 長女
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野坂家
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野坂の姓は福井県に発するという。 曽祖父は越前福井藩主松平慶永の家臣だった。身分は不明だが、御一新以後、東京で逼塞。 祖父は警視庁邏卒(後の巡査)だったが、酒で失敗して中年以後は骨董を扱った。 父野坂相如(1899年(明治32年)1月生 - 1978年(昭和53年)没)は四男一女の末子。東京府立第一中学校、旧制第一高等学校、東京大学を出た典型的秀才だったが、父のすぐ上の兄はさらに秀才だったという。次兄は陸軍大学校出身。父の兄弟は画家、軍人、実業家、役人になった。姉妹は軍人に嫁いでいる。 生母ぬいは二男一女を生み、昭如の出産後ほどなくして亡くなった。母方の祖父は明治末年に熊本から台湾へ渡った山師である。植民地で金貸しを営み、かたわら興行を手がけて、たいへん羽振りが良かった。 父・相如の後妻・笑子は活動弁士西村楽天の長女。 継母の父は漫談家、母は小唄の師匠。継母は娘時代、天才的三味線の演奏者といわれ、二代目稀音家浄観の息子四代目稀音家六四郎の嫁に望まれていた。 兄の野坂恒如はジャズ評論家。 妻は元宝塚歌劇団娘役で、シャンソン歌手の野坂暘子(宝塚での芸名:藍葉子)、長女はエッセイストの野坂麻央(芸名:花景美妃)、次女は女優の愛耀子と、そろって元宝塚歌劇団娘役。次女の夫は歌舞伎囃子方の十三代目田中傳左衛門。
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野坂家
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(鳥取県米子市法勝寺町・東倉吉町・角盤町) 妻・幹代(養父吉五郎の長女) 養父野坂吉五郎(金銭貸付業)は、衆議院議員をつとめた野坂茂三郎の弟。 長男・一郎(無線技師) 二男・佑二 三男・陞三 四男・奬 長女
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