野坂家とは? わかりやすく解説

野坂家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 00:27 UTC 版)

野坂寛治」の記事における「野坂家」の解説

鳥取県米子市法勝寺町家系 米子油の取り扱い業者としては唐櫛屋(益尾)、山形屋上田)、油屋野坂)などが有名であった。 父・茂三郎鳥取県平民呉服商人参製造米綿仲買商大地主実業家政治家1861年文久元年2月生 - 1923年大正12年5月没 父茂三郎は、明治期における米子商人代表するひとりだが、商売才腕をふるう一方道楽凝り政治事業私財投じた1891年明治24年米子商工会議所設立されると副会頭就任初代坂口平兵衛などと組んで各種事業近代化画策した。1896年明治29年9月郡会議員選出され1898年明治31年3月実施され第5回総選挙第三区から衆議院議員に当選した。 『明治人名辞典 下巻』(底本・日本現今人名辞典明治三三年)』) のノ十によると、「君は鳥取縣の人にして油屋稱し人参製造代辧業兼呉服太物商營み方今株式會社米子銀行及び同中國貯蓄銀行取締役、同米子米綿取引所理事等の任に在り(所六六圓餘、營一三七圓餘伯耆國西伯郡米子町法勝寺町)」。 野坂寛治によると、「ころは明治三十一年衆議院総選挙に父が立候補して美事かどうかわからぬがともかく当選した所属政党政友会前身自由党であった拙宅記録によると買収併せておよそ三千百円要し、更に私事に渡るが、その費用祖父出さないので、外祖父村上常三翁が祖父から借金して、それを聟の父に回してやる実に美し間柄で、その金が倅の選挙費であることを百も承知の上で、父に当らず母に当り散らしたから、時々母はチクチク皮肉られる祖父言葉に、目を泣きはらしたのを何の事やら知らずに、祖父変な奴思った事も一再でなかった。とにかく祖父野暮に比べて外祖父鹿島家出である故もあって風雅人であり、特に村上に行く度にうまい菓子をくれた嬉しさは、七十近くになってなお忘れぬ。」という。 母・たみの(鳥取県平民村上三二女) 1868年明治元年8月生 - 没三郎文筆業1899年明治32年8月生 - 没米中経て慶應義塾大学経済学部卒業時事新報入社1936年昭和11年退社。翌1937年昭和12年東宝映画会社入社戦後1948年昭和23年)ごろ同社をやめて東宝教育映画移ったが、この会社2年くらいでつぶれ、以後定職につかず。 淳 1892年明治25年2月生 - 没 妹(元島根県松江市教育委員長松江市議会議長松本美行の妻) 妻・のぶ(島根県平民石橋孫八孫) 1895年明治28年9月生 - 没 叔父野坂康二実業家伯母・かつの(第五代米町長杵村源次郎の妻) 野坂人參会社 野坂寛治によると、「野坂人參会社は、井田医院近くヨゼンをたもつ。わびすけ椿のいいのは、遠の昔に枯れにけった。拙家営業し薬用人參は、池田藩の業を引継いだのか、今一代あってそれを続けたのか、判然しないが時期になると荒くれ男美しいのやそれ程でない娘や古娘が、昼夜入り乱れて洗ってヒゲ落して蒸して乾して、歌って騒いだ。(中略人參畑は東伯・西伯・日野・能義・八束の各郡に及んでいて、栽培四年目毎に掘って製造にかかり、ここで干しあげたのを法勝寺町の宅に持帰って磨いて袋に詰めて箱にして、神戸取引した。」という。

※この「野坂家」の解説は、「野坂寛治」の解説の一部です。
「野坂家」を含む「野坂寛治」の記事については、「野坂寛治」の概要を参照ください。


野坂家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 14:41 UTC 版)

野坂康夫」の記事における「野坂家」の解説

鳥取県米子市法勝寺町米子市東倉吉町米子市角盤町米子市錦町米子市義方町) 野坂家は米子法勝寺町商家だった。屋号油屋米子油の取り扱い業者としては唐櫛屋(益尾)、山形屋上田)、油屋野坂)などが有名であった曽祖父野坂吉五郎金銭貸付業)は、中国貯蓄銀行頭取衆議院議員などをつとめた野坂茂三郎の弟。 祖父野坂康久は、酒造りをしていた稲田家から野坂家へ養子に来た。米子市東倉吉町洋食レストラン十字屋」を経営市会議員つとめた伯父野坂一郎、父陞三はそろって無線技師で、ラジオ山陰(現山陰放送)につとめた。 父陞三はBSS企画社長になった。

※この「野坂家」の解説は、「野坂康夫」の解説の一部です。
「野坂家」を含む「野坂康夫」の記事については、「野坂康夫」の概要を参照ください。


野坂家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 14:36 UTC 版)

野坂一郎」の記事における「野坂家」の解説

鳥取県米子市法勝寺町米子市東倉吉町米子市角盤町米子市錦町米子市義方町) 野坂家は米子法勝寺町商家だった。屋号油屋米子油の取り扱い業者としては唐櫛屋(益尾)、山形屋上田)、油屋野坂)などが有名であった祖父・吉五郎実業家政治家地主元中興業銀行常務取締役、元米子町会議員慶応2年1866年9月 - 没 父・康久(実業家政治家明治22年1889年6月生 - 没 母・幹代 大伯父・茂三郎鳥取県平民呉服商人参製造米綿仲買商実業家政治家大地主文久元年1861年2月生 - 大正12年1923年5月大叔父康二実業家明治10年1877年4月生 - 没 妻(島根県島田伊一三女長男 長女

※この「野坂家」の解説は、「野坂一郎」の解説の一部です。
「野坂家」を含む「野坂一郎」の記事については、「野坂一郎」の概要を参照ください。


野坂家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 16:30 UTC 版)

野坂昭如」の記事における「野坂家」の解説

野坂の姓は福井県発するという。 曽祖父越前福井藩松平慶永家臣だった。身分不明だが、御一新以後東京逼塞祖父警視庁邏卒(後の巡査)だったが、酒で失敗して中年以後骨董扱った。 父野坂相如1899年明治32年1月生 - 1978年昭和53年)没)は四男一女末子東京府立第一中学校旧制第一高等学校東京大学出た典型的秀才だったが、父のすぐ上の兄はさらに秀才だったという。次兄陸軍大学校出身。父の兄弟画家軍人実業家役人になった姉妹軍人に嫁いでいる。 生母ぬいは二男一女を生み、昭如の出産後ほどなくして亡くなった母方の祖父明治末年熊本から台湾へ渡った山師である。植民地金貸し営みかたわら興行を手がけて、たいへん羽振り良かった。 父・相如の後妻笑子活動弁士西村楽天長女継母の父は漫談家、母は小唄師匠継母娘時代天才的三味線演奏者といわれ、二代目稀音家浄観息子四代目稀音家六四郎の嫁に望まれていた。 兄の野坂恒如はジャズ評論家。 妻は元宝歌劇娘役で、シャンソン歌手野坂暘子宝塚での芸名藍葉子)、長女エッセイスト野坂麻央芸名花景美妃)、次女女優愛耀子と、そろって元宝歌劇娘役次女の夫は歌舞伎囃子方十三代目田中傳左衛門

※この「野坂家」の解説は、「野坂昭如」の解説の一部です。
「野坂家」を含む「野坂昭如」の記事については、「野坂昭如」の概要を参照ください。


野坂家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 01:03 UTC 版)

野坂康久」の記事における「野坂家」の解説

鳥取県米子市法勝寺町東倉吉町角盤町) 妻・幹代(養父五郎長女養父野坂吉五郎金銭貸付業)は、衆議院議員つとめた野坂茂三郎の弟。 長男一郎無線技師二男・佑二 三男・陞三 四男・奬 長女

※この「野坂家」の解説は、「野坂康久」の解説の一部です。
「野坂家」を含む「野坂康久」の記事については、「野坂康久」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「野坂家」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「野坂家」の関連用語

野坂家のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



野坂家のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの野坂寛治 (改訂履歴)、野坂康夫 (改訂履歴)、野坂一郎 (改訂履歴)、野坂昭如 (改訂履歴)、野坂康久 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS