武田軍が大敗した理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 17:40 UTC 版)
武田軍が大敗した理由としては、通説では武田の騎馬隊は柵の前に攻撃力を発揮できず、また、鉄砲の時間差を見越して断続的に攻撃を仕掛けたが、織田軍の時間ロスを減らした三段撃ちによって被害を拡大させ、著しく戦力が低下したところを柵より打って出た織田・徳川連合軍によって殲滅されたとされる。しかし、「#織田軍の鉄砲数と三段撃ちについて」に記述されるように三段撃ちは実在が疑わしく、また、武田軍は朝から昼過ぎまで数時間にわたって鉄砲の射程内に留まり、ひたすら掃射を受けていたこともおかしい(火縄銃の有効射程は50-100m)。そして『信長公記』の記述では柵から出入りしていたとあることから、いずれにしても通説は非常に疑わしい。 井沢元彦は三段撃ちこそなかったものの、1,000丁という大量の鉄砲の一斉掃射による轟音によって武田の馬が冷静さを失い、騎馬隊を大混乱に陥れたのではないかと指摘している。織田軍は過去に雑賀鉄砲隊との戦いで、雑賀軍が狙撃手を秘匿するために行ったおとりの空砲の速射で大混乱に陥ったことがあり、当時の軍隊に対しては鉄砲の一斉射撃や速射に高い威嚇効果があった可能性が高い。逆に武田軍はそれまで雑賀や根来のような鉄砲隊を主力とした軍隊と戦った経験はなく、過去に手痛い敗戦を被った織田軍よりも轟音対策が遅れていた可能性を踏まえた説である。一方で鈴木眞哉はこの説を否定しており、武田家では以前から鉄砲を使用しており、例えば長篠の戦いでも長篠城が穴だらけにされるほどに大量に持参したと考えられ、その武田家が馬が銃声にどう反応するか知らなかったのは考えにくいと指摘している。 信長が行った野戦築城に対し、従来通りの野戦と騎馬隊突撃の戦術を用いたのが大敗の一番の理由とする説もある。名和弓雄は脆弱に見える馬防柵の突破が容易と誤認させることで武田軍を誘引したうえで、空堀と銃眼付き土塁に守られた鉄砲隊が射撃を浴びせたことが勝因だったと指摘している。また、武田側は、事前偵察が鉄砲でことごとく撃退されたうえ、開戦後は轟音と硝煙で戦場の様子が把握できず、織田・徳川連合軍の防備や戦力を把握できないまま突入を繰り返して被害を拡大させたと推測している。ただし、馬防柵に守られて待ち構える鉄砲隊に歩兵や騎馬を突撃させたこと自体については、当時の感覚では正攻法であり、必ずしも無策・愚策ではなかった。例えば織田家でも過去に対本願寺戦や雑賀衆攻めで敵の鉄砲隊に対して鉄砲の装備率や兵数に劣りながらも、突撃を敢行して窮地を脱した事があった(逆に大敗をした例もある)。後年の合戦でも沖田畷の戦いや戸次川の戦いでは大量に鉄砲を装備した龍造寺軍や豊臣軍に対して島津軍は弓の援護と太刀による突撃を繰り返し(鉄砲の数では島津軍が劣る)、弾の装填に時間のかかる鉄砲衆はもちろん長槍隊も無効化して勝利している。甲陽軍鑑においても「鉄砲隊に対する突撃」という作戦・戦法そのものを否定した記述はなく、圧倒的兵力差がある織田徳川連合軍との決戦に至った事を非難している。 他に大敗の理由としては武田軍の陣形が崩れたことも挙げられる。数的劣勢に立たされていた武田軍が取った布陣は翼包囲を狙った陣形だったが、これは古今東西幾度となく劣勢な兵力で優勢な敵を破った例があり、有名なところではカンナエの戦い(陣形図など当該記事が詳しい)がある。これは両翼のどちらかが敵陣を迂回突破することで勝利を見出す戦術であるが、両翼の部隊が迂回突破する前に中央の部隊が崩れると両翼の部隊が残されて大損害を被る。まさに長篠の戦いは失敗の典型例といえ、左翼に山県・内藤、右翼に馬場・真田兄弟・土屋と戦上手、もしくは勇猛な部将を配置していたのにもかかわらず、中央部隊の親類衆(特に重鎮。叔父・武田信廉、従兄弟・穴山信君)の早期退却による中央部の戦線崩壊により、両翼の部隊での損害が増大した(穴山信君、武田信廉はもともと勝頼とは仲が悪かったとはいえ、これらは総大将の勝頼の命令を無視した敵前逃亡と言うべきものだった)。現に、討死した将兵の多くは両翼にいた者達(譜代、先方衆)であり、中央にいた者達は親類衆以外でも生還している者が多く、戦死した近親者は従兄弟の望月信永(武田信繁三男、信豊の実弟)のみという有様だった。また、当然信長としても鶴翼包囲を予見し、限られた数の鉄砲を両翼に集中的に配置していたと考えるのが自然であり、実際左翼では山県が、右翼では土屋が鉄砲により討死している。 間接的ではあるが、鳶ヶ巣山への攻撃により退路を脅かされたことや、荷馬を四散させられて、武田軍は意思決定の選択肢・時間が制限されて心理的に圧迫されたことも大敗の重要な要因と考えられる。また、和暦の5月という梅雨の時期に、この日だけは何故か武田軍の本陣付近以外は晴れていたと伝えられ、このため、織田軍の鉄砲隊が大活躍し、逆に武田軍は霧のために戦況を正しく把握することができず損害をいっそう拡大させたとされる(『長篠日記・設楽史』によれば信長は大事な合戦では必ず雨が降って行軍の足音を消したことから梅雨将軍とも呼ばれるほどだったので、晴れたのは珍しいことであったという)。
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