武田軍団の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 15:08 UTC 版)
天正10年(1582年)2月3日、まず森長可、団忠正の織田軍先鋒隊が岐阜城を出陣。若い両将の目付けとして河尻秀隆が本隊から派遣された。2月6日、先鋒隊は森、団の両名は木曽口から、河尻は伊那街道から信濃に兵を進めている。伊那街道沿いの武田勢力は恐れをなし、織田の先鋒隊が信濃に入った同日、岩村への関門・滝沢(長野県下伊那郡阿智村・平谷村周辺)の領主であった下条信氏の家老・下条氏長(九兵衛尉)が信氏を追放して織田軍に寝返り河尻の軍勢を戦わずして信濃へと招き入れると、2月14日には松尾城(飯田市)主小笠原信嶺も織田軍に寝返った。2月12日、本隊の織田信忠と滝川一益がそれぞれ岐阜城と長島城を出陣し、翌々日の2月14日には岩村城に兵を進めた。 天正10年(1582年)2月14日に浅間山が噴火。武田家は組織的抵抗が難しくなる。 2月15日には織田信長から一益に「若い信忠をよく補佐せよ」との書状も届いた。2月16日、武田勢は鳥居峠で信長の命を受けた織田一門衆らの支援を受けた木曾義昌勢に敗北を喫した(鳥居峠の戦い)。翌17日に信忠は平谷に陣を進め、さらに翌日には飯田まで侵攻。同日、飯田城主保科正直は城を捨てて高遠城へと逃亡(後に投降して戦後に高遠城主となった)、飯田城放棄を聞いた武田信廉(勝頼の叔父)らは戦意喪失。大島城(下伊那郡松川町)での抗戦は不可能とし、大島城から逃亡する。同じ2月18日、徳川家康が浜松城を出発し掛川城に入り、2月20日には依田信蕃が守備する田中城を包囲。2月21日には駿府城に進出した。侵攻初期にあたって投降が相次いだ結果、武田軍はほとんど戦わずして南信濃を失うことになった。 北条氏政は小仏峠や御坂峠など相甲国境に先鋒を派遣した後、2月下旬に駿河東部に攻め入る。2月28日には駿河に残された武田側の数少ない拠点の1つである戸倉城・三枚橋城を落とし、続いて3月に入ると沼津や吉原にあった武田側の諸城を陥落させていった。上野方面では氏政の弟・北条氏邦が厩橋城主北条高広に圧力をかけ、さらに真田昌幸の領地をも脅かしていった。
※この「武田軍団の崩壊」の解説は、「甲州征伐」の解説の一部です。
「武田軍団の崩壊」を含む「甲州征伐」の記事については、「甲州征伐」の概要を参照ください。
- 武田軍団の崩壊のページへのリンク