下条氏長とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 下条氏長の意味・解説 

下条氏長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 10:14 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
下条 氏長
時代 戦国時代安土桃山時代
生誕 未詳
死没 天正10年(1582年)6月
別名 九兵衛尉
主君 武田氏織田氏
氏族 下条氏
父母 下条時氏
兄弟 信氏氏長、祐教
次郎九郎
テンプレートを表示

下条 氏長(しもじょう うじなが)は、戦国時代武将。下条時氏の三男。信濃伊那郡吉岡城主である下条信氏の弟。

略歴

兄・信氏は武田氏配下の信濃先方衆であり、武田信玄の妹を娶り東美濃方面や三河方面の軍事に携わるなど重用されていた。

天正10年(1582年)2月、織田氏による武田領国への侵攻が開始されると、信氏率いる下条一族は信濃・美濃国境の滝沢要害(現・平谷村)に籠城し織田軍を迎え撃とうとした。しかし圧倒的な織田軍を前に陣中では動揺が広がり、氏長は熊谷玄蕃、原民部らの家中の同志を募り信氏・信正父子に織田方への降伏を進めた。これに対して信氏は降伏の提案を拒否したため、6日に氏長は叛乱を起こして信氏・信正らを追放して織田方に降伏した[1][2]。これにより『甲乱記』に「三日路の大切所」と記された難所であった浪合口を織田軍は難なく突破し、武田軍の伊那郡における防衛戦線の崩壊を早めた。『下条由来記』によれば武田氏滅亡後の織田軍の仕置により氏長は下条氏の家督と下条領を安堵されたが、氏長は織田氏や隣接していた松尾城主・小笠原信嶺の後援を背景に専横のふるまいが多く、家中の不満を貯めていたという[3]

同年6月の本能寺の変により織田信長が横死し、それに伴い旧武田領国の各地で動揺が走ると下条家中にも叛乱の兆しが現れる。家中の反氏長派は三河国に亡命していた信氏の次男・頼安と孫・牛千世丸(後の康長)を擁立し、また頼安らを保護していた徳川氏配下の菅沼定利に協力を取り付け蜂起を計画していた[3]。時を経たずに反対派は蜂起し、氏長や子・次郎九郎、共に信氏らを追放した熊谷玄蕃と原民部、氏長の実弟・長岳寺住職祐教法師らは謀殺されたという[2][3]

その後下条氏の吉岡城には遅くとも6月下旬までに頼安・牛千世丸が帰還を果たし、伊那郡の徳川方国衆として活動する。

脚注

  1. ^ 平山優『武田氏滅亡』KADOKAWA、2017年、575-580頁。
  2. ^ a b 平山優「下条氏長」『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年。
  3. ^ a b c 平山優『天正壬午の乱』戎光祥出版、2015年、102-106頁。

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  下条氏長のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「下条氏長」の関連用語

下条氏長のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



下条氏長のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの下条氏長 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS