勢力拡大から信長の死まで
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「織田政権」の記事における「勢力拡大から信長の死まで」の解説
天正2年(1574年)に伊勢の長島一向一揆を鎮圧した織田信長は、天正3年(1575年)5月25日の長篠の戦いにおいて徳川家康とともに甲斐国の武田勝頼を破った。さらに8月に越前・加賀で一向宗徒を鎮圧し、同地を支配下に置くに至った。 天正10年(1582年)、織田氏の勢力は畿内近国から、東は甲信から関東の上野にかけて、西は山陽道の備中、南海道の淡路・四国の一部にかけてという強大な勢力に伸張していた。 紀伊に関しては直接的な勢力こそ浸透していなかったが、天正8年(1580年)に石山戦争が終結した後、鈴木孫一と土橋若太夫が仲間割れして分裂し、信長は野々村正成を派遣して鈴木側に肩入れし、天正10年(1582年)1月23日には『信長公記』の記述によると、孫一が信長の承諾を得て土橋を謀殺し、信長の勢力を背景にした鈴木氏の勢力が拡大していた。 越後では上杉謙信が天正4年(1576年)に石山本願寺と講和して織田信長との同盟を破棄し、天正5年(1577年)9月に織田軍を手取川の戦いで破るなどした。しかし、上杉謙信が天正6年(1578年)3月に死去すると、謙信養子の上杉景勝・景虎間で家督を巡る御館の乱が発生すると、越後へ出兵した武田勝頼は景勝・景虎間の和睦を調停するが、勝頼の撤兵中に乱が再発し景勝が乱を制したため、これにより武田氏と後北条氏間の甲相同盟が破綻し、勝頼は景勝との同盟を強化し甲越同盟を締結した。 天正8年(1580年)3月には北条氏政が信長に従属を申し入れ、勝頼も信長との和睦を試みるが(甲江和与)、信長はこれを退けている。天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍による武田領侵攻(甲州征伐)により勝頼は滅亡し、上杉景勝は北陸と信濃・上野から織田方に圧迫される。さらに景勝は越後北部からも織田方に寝返った新発田重家の反乱を受けて、危機的状況にあった。 西国では、備前の宇喜多氏を事実上従属させた羽柴秀吉が中国路の備中にまで進軍していた。 四国でも、阿波と讃岐に大きな影響力を持つ三好氏の一族である三好康長を天正9年(1581年)1月に四国に渡海させ、在国して長宗我部氏に抵抗していた三好一族を糾合させて阿波東部と讃岐に勢力を伸張させ、さらに3男の織田信孝を総大将とした軍勢を四国に渡海させようとしていた。 九州の大友氏とは天正7年(1579年)に信長が大友義統の官位叙任を奏請したことから誼を結んでおり、またこの前年に耳川の戦いで島津軍に敗れて窮地に立たされていた大友宗麟から島津義久との和睦仲介も依頼されており、その関係から島津氏ともすでに誼を通じていた。 伊達氏など奥州の諸大名も、信長に名馬や鷹を献上するなどして信長に官位叙任の奏請の依頼など誼を積極的に求めており、この頃の信長の威令は全国規模に及ぶようになっていた。 だが、天正10年(1582年)6月2日、信長は家臣の明智光秀の謀反により京都本能寺で自害する(本能寺の変)。このとき、嫡男で織田政権の後継者だった織田信忠も二条城で自刃した。
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