勢力拡大から信長の死までとは? わかりやすく解説

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勢力拡大から信長の死まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 04:42 UTC 版)

織田政権」の記事における「勢力拡大から信長の死まで」の解説

天正2年1574年)に伊勢長島一向一揆鎮圧した織田信長は、天正3年1575年5月25日長篠の戦いにおいて徳川家康とともに甲斐国武田勝頼破った。さらに8月越前加賀一向宗徒を鎮圧し同地支配下に置くに至った天正10年1582年)、織田氏勢力畿内近国から、東は甲信から関東の上野にかけて、西は山陽道備中南海道淡路四国一部にかけてという強大な勢力伸張していた。 紀伊に関して直接的な勢力こそ浸透していなかったが、天正8年1580年)に石山戦争終結した後、鈴木孫一土橋若太夫仲間割れして分裂し信長野々村正成派遣して鈴木側に肩入れし、天正10年1582年1月23日には『信長公記』の記述によると、孫一信長承諾得て土橋謀殺し、信長勢力背景にした鈴木氏勢力拡大していた。 越後では上杉謙信天正4年1576年)に石山本願寺講和して織田信長との同盟破棄し天正5年1577年9月織田軍を手取川の戦いで破るなどした。しかし、上杉謙信天正6年1578年3月死去すると、謙信養子の上景勝景虎間で家督を巡る御館の乱発生すると、越後出兵した武田勝頼景勝景虎間の和睦調停するが、勝頼の撤兵中に乱が再発し景勝が乱を制したため、これにより武田氏後北条氏間の甲相同盟破綻し、勝頼は景勝との同盟強化し甲越同盟締結した天正8年(1580年)3月には北条氏政信長従属申し入れ、勝頼も信長との和睦試みるが(甲江和与)、信長はこれを退けている。天正10年1582年3月織田徳川連合軍による武田侵攻甲州征伐)により勝頼は滅亡し上杉景勝北陸信濃上野から織田方に圧迫される。さらに景勝越後北部からも織田方に寝返った新発田重家反乱受けて危機的状況にあった西国では、備前宇喜多氏事実上従属させた羽柴秀吉中国路備中にまで進軍していた。 四国でも、阿波讃岐大きな影響力を持つ三好氏一族である三好康長天正9年1581年1月四国渡海させ、在国して長宗我部氏抵抗していた三好一族を糾合させて阿波東部讃岐勢力伸張させ、さらに3男の織田信孝総大将とした軍勢四国渡海させようとしていた。 九州大友氏とは天正7年1579年)に信長大友義統官位叙任奏請したことから誼を結んでおり、またこの前年に耳川の戦い島津軍敗れて窮地に立たされていた大友宗麟から島津義久との和睦仲介依頼されており、その関係から島津氏ともすでに誼を通じていた。 伊達氏など奥州諸大名も、信長名馬献上するなどして信長官位叙任奏請依頼など誼を積極的に求めており、この頃信長威令全国規模に及ぶようになっていた。 だが、天正10年1582年6月2日信長家臣明智光秀謀反により京都本能寺自害する本能寺の変)。このとき、嫡男織田政権後継者だった織田信忠二条城自刃した。

※この「勢力拡大から信長の死まで」の解説は、「織田政権」の解説の一部です。
「勢力拡大から信長の死まで」を含む「織田政権」の記事については、「織田政権」の概要を参照ください。

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