勢力拡大・下野国進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 14:42 UTC 版)
義舜は所領の一部を再び岩城氏らに割譲せざるを得なくなったが、その後は永正の乱や、白河結城氏の内紛(永正の変)などに介入し、依上保(現茨城県久慈郡大子町)まで版図の拡大した。また、家法を二十三ヶ条制定し、軍事力の強化を図った。 永正10年(1513年)8月には、茂木持知に対し山内郷、小深郷(現在の栃木県茂木町)を宛行い、小田氏庶流である茂木氏を佐竹家臣団に組み込み下野国への進出に成功。さらに宇都宮家中に属している武茂氏(宇都宮一門)や松野氏(宇都宮一門)にも影響を与えた。武茂氏や松野氏は後に宇都宮氏から離れ佐竹氏の影響下に降ることになるがその時期は天文年間であり、次代の義篤・義昭父子の頃である。
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