今川軍による宗家岩津松平の討滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 00:42 UTC 版)
「松平長親」の記事における「今川軍による宗家岩津松平の討滅」の解説
永正5年(1508年)旧暦8月、今川氏親名代の伊勢宗瑞率いる今川軍は大樹寺を本陣として岩津城を攻めた(永正三河の乱)。しかし、「岩津殿」は戦に名のある家来もあって少しも動揺せず、城に敵を近寄せない戦いぶりだったために、今川勢も持てあましたという(『三河物語』)。その間に、岩津への救援軍として安祥城の長親が井田野に現れると、これを迎え撃った今川軍だったが、長親の戦いぶりに手を焼いて伊勢宗瑞の本陣への肉薄を許すなど苦戦。さらに戸田氏から背後を襲われることを懸念して、今川軍は撤退したという。もっとも、今川軍の主要攻撃目標は岩津松平家であったため、岩津落城を果たしたのを契機に宗瑞は兵を引いたのだとも考えられている。この合戦の結果、岩津松平家は著しく衰退したと考えられる。 結果として、長親の安祥松平家が惣領になりかわったものと考えられる。 同年、長男の信忠に家督を譲って隠居した。この時点での隠居は早すぎると思われるが真相は不明確。長男の信忠が暗愚だったのを知らなかったためとも、長親自身が1501年の時点ですでに入道していたためともいう。もっとも、その後も信忠・嫡孫清康の後見人として今川軍と戦っている。
※この「今川軍による宗家岩津松平の討滅」の解説は、「松平長親」の解説の一部です。
「今川軍による宗家岩津松平の討滅」を含む「松平長親」の記事については、「松平長親」の概要を参照ください。
- 今川軍による宗家岩津松平の討滅のページへのリンク