今川軍の総兵力とは? わかりやすく解説

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今川軍の総兵力

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 15:35 UTC 版)

桶狭間の戦い」の記事における「今川軍の総兵力」の解説

今川氏には家臣団編成実態を知る分限帳軍役帳伝存しておらず動員可能兵力想定することは困難であるが、『信長公記においては四万五千小瀬甫庵の『信長記』には数万騎と記しそのほか後代編纂資料においては甲陽軍鑑』には二万余、『武功夜話』には三万有余、『徳川実紀』『武徳編年集成』『総見記』などには四万余、『改正三河後風土記』は『信長公記に基づき四万五千、『絵本太閤記』には五万余といった数字記している。 近年まで影響力があったのは、第二次世界大戦前帝国陸軍参謀本部編纂日本戦史 桶狭間役』にある25,000である。小和田哲男義元領地石高換算90から100万石と見て1万250人の兵力動員からやはり25,000だとする。近年には太田満明、橋場日月など、太閤検地による近世初頭今川領の総石高元に、二五千でも多すぎると異論を唱える論者もいる。 駿河遠江三河の3国のほか、尾張の南半分押さえている今川は、尾張の北半分押さえ織田とは兵力差があった。尾張の国力を信長動員ではなく信長が、同族平定し、自らが擁立した尾張守護斯波義銀追放して尾張国国主となったのは、桶狭間の戦い前年に過ぎない本合戦で信長に従って戦ったのは従来からの家臣たちであり、尾張統一過程信長家臣組み込まれた者や国人豪族たちは戦況様子見するか、服部党の服部友貞のように今川方についた。このことからも、信長動員力は非常に限られたのだった

※この「今川軍の総兵力」の解説は、「桶狭間の戦い」の解説の一部です。
「今川軍の総兵力」を含む「桶狭間の戦い」の記事については、「桶狭間の戦い」の概要を参照ください。

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