今川貞世の九州平定とは? わかりやすく解説

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今川貞世の九州平定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 15:16 UTC 版)

九州平定 (日本史)」の記事における「今川貞世の九州平定」の解説

詳細は「今川貞世#九州平定」、「水島の変」、および「明徳の乱」を参照 今川貞世(了俊)は1370年建徳元年/応安3年)頃、管領細川頼之より渋川義行後任九州探題として推挙され3代将軍足利義満によって正式に任命された。遠江で兵を集め10月京都出発翌年5月には安芸滞留して毛利元春吉川経見熊谷直明山内通忠ら在地国人衆面会した。 翌建徳2年/応安4年1371年12月には渡海して豊前至り、そこで大内弘世義弘父子などの協力得て新興国人衆との連携深めた阿蘇惟村協力により、嫡男の貞臣を田原氏能と共に豊後高崎山城入城させ、弟の今川仲秋松浦党協力得て肥前から、了俊自身豊前表から、南朝拠る大宰府攻撃した文中元年/応安5年1372年6月には懐良親王菊池武光等を筑後高良山から菊池氏本拠肥後隈部城菊池城)へと追い南朝勢力から大宰府奪回し北朝方の拠点とした。 この後了俊は文中3年/応安7年1374年7月肥後菊池郡水島の地に陣をもうけ、天授元年/永和元年1375年)には同地での会戦備えて当時九州勢力築いていた豊後守護大友親世筑前守少弐冬資大隅守島津氏久3名の来援呼びかけた。了俊と対立していた少弐冬資当初着陣拒んだが、島津氏久仲介で来陣した。しかし、了俊は水島の陣において宴の最中に冬資を謀殺したため、氏久は離反して大隅帰国し、了俊の九州経営抵抗した水島の変)。 了俊はこれらに対し体制挽回し弘和元年/永徳元年1381年)には菊池武朝隈部城から追放し九州南部転進した島津氏久と甥の島津伊久に対しては5男の今川満範派遣して国人一揆結成させ、弘和2年/永徳2年1382年)に帰順させた。元中9年/明徳3年1392年)、明徳の和約南北朝合一)を契機として菊池氏正式に和睦し九州平定完遂し室町幕府安定寄与した。 なお、この間明徳2年1391年)、山名氏清らが幕府叛旗ひるがえした明徳の乱中国地方畿内中心におこっているが、その際九州分国併呑した了俊の勢力山名氏勢力背後から牽制する役割一部になっている応永2年1395年)、了俊は九州探題の職を解かれ駿河遠江半国守護左遷されたが、その時点で九州探題のほか、筑前筑後肥前肥後大隅薩摩壱岐・対馬の8か国の守護も兼任しており、明徳の乱後の最大国持大名となっていた。 日本史学桜井英治は、当時幕府御家人守護被官化が全国的に進展していく趨勢にあったが、それが「九州平定」をめざしていた今川了俊にとっては最大ネックになっていたことを指摘している。

※この「今川貞世の九州平定」の解説は、「九州平定 (日本史)」の解説の一部です。
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