今川貞世の九州平定
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「九州平定 (日本史)」の記事における「今川貞世の九州平定」の解説
詳細は「今川貞世#九州平定」、「水島の変」、および「明徳の乱」を参照 今川貞世(了俊)は1370年(建徳元年/応安3年)頃、管領細川頼之より渋川義行の後任の九州探題として推挙され、3代将軍足利義満によって正式に任命された。遠江で兵を集め、10月に京都を出発、翌年の5月には安芸に滞留して、毛利元春、吉川経見、熊谷直明、山内通忠ら在地の国人衆と面会した。 翌建徳2年/応安4年(1371年)12月には渡海して豊前へ至り、そこで大内弘世・義弘父子などの協力も得て新興国人衆との連携を深めた。阿蘇惟村の協力により、嫡男の貞臣を田原氏能と共に豊後高崎山城に入城させ、弟の今川仲秋は松浦党の協力を得て肥前から、了俊自身は豊前表から、南朝の拠る大宰府を攻撃した。文中元年/応安5年(1372年)6月には懐良親王、菊池武光等を筑後高良山から菊池氏本拠の肥後隈部城(菊池城)へと追い、南朝勢力から大宰府を奪回して北朝方の拠点とした。 この後了俊は文中3年/応安7年(1374年)7月に肥後菊池郡水島の地に陣をもうけ、天授元年/永和元年(1375年)には同地での会戦に備えて、当時九州で勢力を築いていた豊後守護大友親世、筑前守護少弐冬資、大隅守護島津氏久3名の来援を呼びかけた。了俊と対立していた少弐冬資は当初着陣を拒んだが、島津氏久の仲介で来陣した。しかし、了俊は水島の陣において宴の最中に冬資を謀殺したため、氏久は離反して大隅に帰国し、了俊の九州経営に抵抗した(水島の変)。 了俊はこれらに対し、体制を挽回して弘和元年/永徳元年(1381年)には菊池武朝を隈部城から追放し、九州南部へ転進した島津氏久と甥の島津伊久に対しては5男の今川満範を派遣して国人一揆を結成させ、弘和2年/永徳2年(1382年)に帰順させた。元中9年/明徳3年(1392年)、明徳の和約(南北朝合一)を契機として菊池氏と正式に和睦し、九州平定を完遂して室町幕府の安定に寄与した。 なお、この間、明徳2年(1391年)、山名氏清らが幕府に叛旗をひるがえした明徳の乱が中国地方や畿内を中心におこっているが、その際、九州各分国を併呑した了俊の勢力が山名氏の勢力を背後から牽制する役割の一部をになっている。応永2年(1395年)、了俊は九州探題の職を解かれ、駿河・遠江半国守護に左遷されたが、その時点で九州探題のほか、筑前・筑後・肥前・肥後・大隅・薩摩・壱岐・対馬の8か国の守護も兼任しており、明徳の乱後の最大の国持大名となっていた。 日本史学者桜井英治は、当時、幕府御家人の守護被官化が全国的に進展していく趨勢にあったが、それが「九州の平定」をめざしていた今川了俊にとっては最大のネックになっていたことを指摘している。
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