今川領遠江への侵攻
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永禄10年(1567年)5月、長男竹千代(後の、信康)に信長の娘である徳姫と結婚させ、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らさせる。 同年6月に家康は、浜松城(浜松市中区)に移り、岡崎城を長男竹千代(後の、信康)に譲った。長男竹千代(後の、信康)は、7月に元服して信長より偏諱の「信」の字を与えられて信康と名乗る事に成った。 永禄11年(1568年)、信長が室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・義昭を奉じて上洛の途につくと、家康も信長への援軍として松平信一を派遣した。同年1月11日、家康は左京大夫に任命されている(『歴名土代』)。左京大夫は歴代管領の盟友的存在の有力守護大名に授けられた官職であり、これは義昭が信長を管領に任命する人事に連動した武家執奏であったとみられる。だが、信長は管領就任を辞退したことから、家康も依然として従来の「三河守」を用い続けた。 同年12月6日、甲斐国の武田信玄が今川領駿河への侵攻を開始すると(駿河侵攻)、家康は酒井忠次を取次役に遠江割譲を条件として武田氏と同盟を結び、13日、遠江国の今川領へ侵攻して曳馬城を攻め落とし、軍を退かずに遠江国で越年する。 武田氏との今川領分割に関して、徳川氏では大井川を境に東の駿河国を武田領、西の遠江国を徳川領とする協定を結んでいたとされる(『三河物語』)。しかし永禄12年(1569年)1月8日、信濃国から武田家臣・秋山虎繁(信友)による遠江国への侵攻を受け、武田氏とは手切となった。 5月に駿府城から本拠を移した今川氏真の掛川城を攻囲。籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江国を支配下に置く(遠江侵攻)。氏真と和睦すると家康は北条氏康の協力を得て武田軍を退けた。以来、東海地方における織田・徳川・武田の関係は、織田と他2者は同盟関係にあるが徳川と武田は敵対関係で推移する。 元亀元年(1570年)、岡崎から遠江国の曳馬に移ると、ここを浜松と改名し、浜松城を築いてこれを本城とした。今川氏真も浜松城に迎え庇護する。また信長を助け、金ヶ崎の戦いに参戦したほか、朝倉義景・浅井長政の連合軍との姉川の戦いでは活躍を見せた。
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