今川領遠江への侵攻とは? わかりやすく解説

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今川領遠江への侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 11:18 UTC 版)

徳川家康」の記事における「今川領遠江への侵攻」の解説

永禄10年1567年5月長男竹千代(後の、信康)に信長の娘である徳姫結婚させ、共に9歳形式夫婦とはいえ岡崎城で暮らさせる。 同年6月家康は、浜松城浜松市中区)に移り岡崎城長男竹千代(後の、信康)に譲った長男竹千代(後の、信康)は、7月元服して信長より偏諱の「信」の字を与えられ信康名乗る事に成った永禄11年1568年)、信長室町幕府13代将軍・足義輝の弟・義昭奉じて上洛の途につくと、家康信長への援軍として松平信一派遣した同年1月11日家康左京大夫任命されている(『歴名土代』)。左京大夫歴代管領盟友存在の有力守護大名授けられ官職であり、これは義昭信長管領任命する人事連動した武家執奏であったとみられる。だが、信長管領就任辞退したことから、家康依然として従来の「三河守」を用い続けた同年12月6日甲斐国武田信玄今川駿河への侵攻開始すると(駿河侵攻)、家康酒井忠次取次役に遠江割譲条件として武田氏同盟を結び、13日遠江国今川領へ侵攻し曳馬城攻め落とし、軍を退かずに遠江国越年する。 武田氏との今川領分に関して徳川氏では大井川を境に東の駿河国武田領、西の遠江国徳川領とする協定結んでいたとされる『三河物語』)。しかし永禄12年1569年1月8日信濃国から武田家臣・秋山虎繁信友)による遠江国への侵攻を受け、武田氏とは手切となった5月駿府城から本拠移した今川氏真掛川城攻囲籠城戦の末に開城勧告呼びかけて氏真を降し遠江国支配下に置く(遠江侵攻)。氏真と和睦する家康北条氏康協力得て武田軍退けた以来東海地方における織田徳川武田の関係は、織田と他2者は同盟関係にあるが徳川武田敵対関係推移する元亀元年1570年)、岡崎から遠江国曳馬に移ると、ここを浜松改名し浜松城築いてこれを本城とした。今川氏真浜松城迎え庇護する。また信長助け金ヶ崎の戦い参戦したほか、朝倉義景浅井長政連合軍との姉川の戦いでは活躍見せた

※この「今川領遠江への侵攻」の解説は、「徳川家康」の解説の一部です。
「今川領遠江への侵攻」を含む「徳川家康」の記事については、「徳川家康」の概要を参照ください。

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