今川仲秋
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時代 | 南北朝時代後期 - 室町時代前期 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
改名 | 国泰→頼泰→仲秋 |
別名 | 仲高(法名) |
官位 | 中務少輔、右衛門佐 |
幕府 | 室町幕府侍所頭人・山城守護 遠江・尾張守護 |
主君 | 足利義詮→義満 |
氏族 | 今川氏 |
父母 | 父:今川範国 |
兄弟 | 範氏、貞世、氏兼、仲秋 |
妻 | 九州千葉氏女 |
子 | 貞秋、氏秋、直秋、国秋 娘(大内義弘室) |
今川 仲秋(いまがわ なかあき)は、南北朝時代後期から室町時代前期の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、遠江・尾張守護。今川氏の分家・遠江今川氏の第2代当主。初名は国泰(くにやす)、後に頼泰(よりやす)、仲秋と名乗る。法名は仲高(ちゅうこう)。
父は今川範国、兄に範氏、貞世(了俊)、氏兼。子に貞秋(さだあき)、氏秋(うじあき)、直秋(なおあき)、国秋(くにあき)。官位は中務少輔、右衛門佐。
生涯
次兄了俊の養子となり、正平23年/応安元年(1368年)に兄の後任として侍所頭人兼山城守護に就任[1][2]。続く建徳2年/応安4年(1371年)には九州探題に就任した兄に従い、11月に長門から九州に渡り肥前へ下向、翌文中元年/応安5年(1372年)2月に肥前に攻めてきた菊池武政を破って筑前に上陸していた兄の軍勢と8月に合流、大宰府を落とした[3]。以後は兄の代官として肥前に赴き、松浦党の結集と南朝勢力の駆逐に務めた[2][4]。また、大内氏と同盟を結ぶことを考えた兄の意向で娘が大内義弘に嫁いだ[5]。他の出来事として、天授元年/永和元年(1375年)8月26日に兄が筑前守護少弐冬資を宴会に招いた際、兄の手引きで冬資を殺害した事件(水島の変)や、弘和元年/永徳元年(1381年)6月に兄と共同で菊池武朝の肥後菊池城(隈府城)と征西大将軍良成親王の染土城を落としたことが挙げられる[6]。
元中3年/至徳3年(1386年)頃に帰京、肥前の経営は甥の貞臣に引き継がれた[7]。元中5年/嘉慶2年(1388年)に遠江守護に任命、翌元中6年/康応元年(1389年)の3代将軍足利義満の厳島神社参詣に同行、明徳4年(1393年)に尾張守護を務め、応永2年(1395年)の義満の出家にならい貞臣ともう1人の甥泰範と共に出家した[2][8]。同年に九州探題を解任された兄と遠江を半国守護として共同統治したが、応永6年(1399年)に応永の乱が起こり、兄が反乱に関与した容疑で泰範に助命嘆願してもらった結果、泰範と共同統治だった駿河を取り上げられた。仲秋も遠江を泰範に取り上げられ、駿河・遠江は翌応永7年(1400年)に泰範の領国になった[9][10]。
応永19年(1412年)、兄から政治の心得を説いた『今川状』を与えられたとされ、以後治世の教訓、手本となり継承されていく。ただし『今川状』には誤りが多く、了俊の著作とは認められていない[11][12]。
遠江今川氏当主となるも実権は兄にあったとされるが、貞臣の後見役として養育している。在任中は目立った記録はないものの、堅実な中継ぎという評価がある。
肥前に残された末子の国秋(母は九州千葉氏)は、肥前佐嘉郡を幕府より与えられ、持永氏(肥前今川家、佐賀今川家)の祖となった。
脚注
参考文献
- 川添昭二『今川了俊』吉川弘文館〈人物叢書〉、1964年。
- 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 1 あ - い』吉川弘文館、1979年。
- 大塚勲『今川氏と遠江・駿河の中世』岩田書院、2008年。
- 平瀬直樹『大内義弘 天命を奉り暴乱を討つ』ミネルヴァ書房(ミネルヴァ日本評伝選)、2017年。
関連項目
- 今川仲秋のページへのリンク