移ろう征西将軍府
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 02:41 UTC 版)
託麻原で敗戦した今川仲秋は天授5年/康暦元年(1379年)6月以降しばしば肥後に侵入しては諸城を攻撃し、天授6年/康暦2年(1380年)菊池十八外城への通路を塞いで兵糧の搬入を閉ざし、遠方より包囲する戦法に出た。親王を奉じる菊池氏は隈部城に籠城を続けたが、弘和元年/永徳元年(1381年)6月仲秋の夜襲を受け、武興の本拠隈部城と親王の在所染土城はともに陥落。親王は武興を率いて金峰山中の「たけ」(熊本市河内町岳)に征西府を移した。当時の南朝方はもはや衰亡の色を隠せず、当面「たけ」に潜んで幕府方の攻撃を避けざるを得ない悲運の中、懐良と良成との間、また菊池氏の間でも内訌が生じるという末期的様相を帯びていた。 ところが、弘和3年/永徳3年(1383年)4月今川方の相良前頼が帰順すると、南肥後の南軍がにわかに活気付いて勢力を強め、元中元年/至徳元年(1384年)頃には宇土氏と河尻氏の援助を得て宇土(熊本県宇土市)へ征西府を移転。元中2年/至徳2年(1385年)1月島津氏と前頼の和睦に続き、2月大隅の禰寝氏も帰順し、南九州の諸氏が相次いで今川方から離反する事態に発展した。なお、親王は同年2月に前頼の軍功を賞し、彼を肥前守護職に補している。
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