大宰府陥落
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一方、一色父子・斯波氏経・渋川義行と相次ぐ探題の任務失敗に業を煮やした北朝は、名将と名高い今川貞世(了俊)を新探題として派遣することを決定。貞世は建徳2年/応安4年(1371年)2月に出京すると、途中、幕府への援軍を請う為に上洛中であった少弐氏らの九州武家を従えつつ、甥の今川仲秋を肥前方面へ遣わし、また子息・今川義範を豊後方面に遣わすなど、着々と九州攻略の方策を推し進め、自らは11月後半に下関へ到達した。この今川貞世の動きを警戒した武光は、豊後国に入った今川義範を討つべく、懐良親王の子と伝わる伊倉宮を奉じて、義範の篭る高崎山城を包囲した。しかし高崎山城の防御は固く、この間に毛利氏・吉川氏など中国地方の豪族の合力を得た今川貞世は下関から門司へ上陸すると、肥前国へ進んでいた今川仲秋も筑前国への進軍を開始。こうして探題軍は早くも征西府の「首府」である大宰府を窺う勢いを見せ始めていた。 この報に接した武光は、文中元年/応安5年(1372年)正月に高崎山城の包囲を急遽解いて筑前へ帰還し、2月には嫡男・菊池武政を今川仲秋軍の押さえとして肥前国へ進めさせたが、仲秋軍によって返り討ちに遭い、逆に仲秋軍の筑前侵入を許してしまう事となった。これによって探題軍は更に勢いづき、今川貞世は博多、さらには博多-大宰府間の要所である高宮を押さえると、いよいよ大宰府に向けて軍を発し、九州・中国の諸氏と合流しながら、大宰府北部にある佐野山に陣を張ると、4月から8月まで大宰府を包囲した。 九州・中国諸氏の軍勢を合わせて圧倒的な大軍となった今川探題の前に、懐良親王や武光らは大宰府に篭城しつつ、九州各地の南朝勢力の蜂起を期待したものの、菊池武安の筑後攻勢なども失敗するなど、戦況は征西府側に好転せず、ついに探題軍は8月10日から大宰府に対して総攻撃を開始した。この戦いでは両軍入り乱れてかなりの激戦となったが、翌日には武安が守る有智山城が落城し、12日には大宰府の防衛維持が不可能となり、懐良親王と武光をはじめとする征西府軍は大宰府を放棄、筑後国の高良山へと逃れていった。ここに懐良親王の大宰府入城以来、11年に亘って九州に覇を唱えた征西府は事実上崩壊した。
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