大宰府陥落とは? わかりやすく解説

大宰府陥落

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 05:45 UTC 版)

菊池武光」の記事における「大宰府陥落」の解説

一方一色父子斯波氏経渋川義行相次ぐ探題任務失敗業を煮やした北朝は、名将名高い今川貞世(了俊)を新探題として派遣することを決定。貞世は建徳2年/応安4年1371年2月出京すると、途中幕府への援軍請う為に上洛であった少弐氏らの九州武家従えつつ、甥の今川仲秋肥前方面遣わし、また子息今川義範豊後方面遣わすなど、着々と九州攻略方策推し進め、自らは11月後半下関到達した。この今川貞世動き警戒した武光は、豊後国入った今川義範を討つべく、懐良親王の子と伝わる伊倉宮を奉じて、義範の篭る高崎山城包囲した。しかし高崎山城防御固くこの間毛利氏吉川氏など中国地方豪族合力得た今川貞世下関から門司上陸すると、肥前国進んでいた今川仲秋筑前国への進軍開始。こうして探題軍は早くも征西府の「首府」である大宰府窺う勢い見せ始めていた。 この報に接した武光は、文中元年/応安5年1372年正月高崎山城包囲急遽解いて筑前帰還し2月には嫡男菊池武政今川仲秋軍の押さえとして肥前国進めさせたが、仲秋軍によって返り討ち遭い逆に仲秋軍の筑前侵入許してしまう事となった。これによって探題軍は更に勢いづき、今川貞世博多さらには博多-大宰府間の要所である高宮押さえると、いよいよ大宰府向けて軍を発し九州中国諸氏合流しながら、大宰府北部にある佐野山に陣を張ると、4月から8月まで大宰府包囲した九州中国諸氏軍勢合わせて圧倒的な大軍となった今川探題前に懐良親王や武光らは大宰府篭城しつつ、九州各地南朝勢力蜂起期待したものの、菊池武安筑後攻勢なども失敗するなど、戦況征西府側に好転せず、ついに探題軍は8月10日から大宰府に対して総攻撃開始した。この戦いで両軍入り乱れてかなりの激戦となったが、翌日には武安が守る有智山城落城し、12日には大宰府防衛維持不可能となり、懐良親王と武光をはじめとする征西府軍は大宰府放棄筑後国高良山へと逃れていった。ここに懐良親王大宰府入城以来11年亘って九州に覇を唱えた征西府事実上崩壊した

※この「大宰府陥落」の解説は、「菊池武光」の解説の一部です。
「大宰府陥落」を含む「菊池武光」の記事については、「菊池武光」の概要を参照ください。

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