桶狭間の戦い後の惨劇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 19:16 UTC 版)
海道一の弓取りと謳われた今川義元は桶狭間の戦い(永禄3年、1560年)で横死し、部下であった松平元康(清康の孫)は自立した。これに怒った跡継ぎの今川氏真は吉田城代小原(大原)肥前守鎮実に松平側についた人質の処刑を命じた。これを永禄4年(1561年)、当寺院口で処刑を行った。一説には串刺しと言う。埋葬されたのは寺から離れた中野新田で、後に十三本塚(処刑された人数は11~14名と説が分かれる)と名づけられたという。ただし、その十三本塚の場所は異説が多く特定が難しい。
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