桶狭間の戦いの功績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 00:16 UTC 版)
桶狭間の戦いの功績の内容は不明だが、一説には、今川義元の本陣の場所を織田信長に伝えたため、義元の首を挙げた毛利良勝よりもその功績は大きいとして、沓掛城主となったという。しかし、なぜ本陣の場所を簗田が知っていたのか、なぜ功績を讃えられたのか、不明な点が多く、小和田哲男や武田鏡村らの歴史研究者が推測を発表しているが定説はない(詳細は桶狭間の戦いの項を参照)。 また、後世において桶狭間の奇襲作戦を立案し、合戦直前に善照寺砦の軍議において他の諸将を差し置いて作戦続行を主張し、立案した作戦が成功したために一番手柄とされたというが、それを証する史料はない。簗田を一番手柄としたことが、信長が情報を重視する表れとする解釈を司馬遼太郎が小説『国盗り物語』にて描いているが、前述の通り歴史学においては司馬の解釈を証明するだけの証拠が発見されていない。
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