桶狭間の始まりとは? わかりやすく解説

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桶狭間の始まり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 03:42 UTC 版)

桶狭間の歴史」の記事における「桶狭間の始まり」の解説

平安時代中期百科事典和名類聚抄』(承平年間931年 - 933年))は、尾張国8郡のひとつである愛智郡中に成海(なるみ)郷」の所在示している。その領域正確に確定することは困難であるが、成海表記後年鳴海」に変化し江戸時代にはその遺称を受け継ぐ大村鳴海村成立明治時代以降行政町である鳴海町経て現在では名古屋市緑区大部分(主に名古屋鉄道名古屋本線から以東地域)で行政区画としての鳴海町存続しており、この鳴海村鳴海町範囲少なくとも成海郷の一部含まれていたことはほぼ明らかであるとされている。 ところで、『延喜式神名帳』(925年延長5年))に記載され尾張国愛知郡17座のうち、現在でも古名とどめる成海神社位置と共に「火上姉子神社位置)」も成海郷内鎮座してたとする鎌倉時代中期成立したという『熱田太神宮縁起』に「奈留美者、是宮酢媛所居之郷名、今云成海」という記述があり、宮酢媛(みやずひめ)の居所である氷上邑(ひかみむら)すなわち後年知多郡大高村一帯また、愛智郡成海郷に含まれていたことを示唆するものである。 12世紀頃に丹羽郡郡司良峰氏によって開発されとされる成海庄」、1357年延文2年正平12年)に後光厳天皇綸旨受けて醍醐寺三宝院が「御祈料所」として知行することになった鳴海庄」が、郷名を継承した以外に往年の成海郷」とどのような関連があるかは不明であり、「成海庄」と「鳴海庄」の関連性はっきりしていないものの、これら3者の領域少なくとも後年鳴海村越えとりわけ鳴海庄」に至っては、西は「成海郷」と同様に大高包括したほか、さらにその先名和(なわ、現東海市名和町付近)にも領域広げていたとみられ、東は傍示本(ほうじもと、現愛知郡東郷町大字春木付近)、高大根(たかおおね、現豊明市沓掛町上高根下高根付近)、沓懸(くつかけ、現豊明市沓掛町本郷・宿付近)、大脇(現豊明市栄町付近)に至る、おおむね天白川以東広がる広範囲をいったものと推測されている。 東に大脇沓掛、西に大高、北に鳴海という愛智郡領域取り囲まれた洞迫間あるいは有松の地が、近隣同様に愛智郡成海郷あるいは鳴海庄に属してたかどうかははっきりと分かっていないが、南の現大府市域に属す多く々と同様、むしろ知多郡の「英比(あくひ)庄」・「英比郷」と何らかの関わりを持つ地であったともいわれる。「英比郷」は建武年間1334年 - 1336年)に足利尊氏が「不断大般若経䉼所」として熱田社に寄進たとする土地で、初め南部にあった熱田社領徐々に国衙領浸食しながら北部広がったとみられることから、英比郷中心地(現知多郡阿久比町付近)に比べて開発遅れていた最北部の洞迫間15世紀以降熱田社領含まれたとする想定も、まったく不可ではないかしれないまた、寛文覚書』(寛文年間1661年 - 1673年))には各概説始め所属の庄名が記されているが、これによれば廻間は近崎村有松村などと共に知多郡花房庄」に属していたことが示されている。『寛文覚書』は知多半島中央部から付け根にかけての々に「英比庄」・「花房庄」・「大高庄」・「荒尾庄」などを冠しているが(いずれも知多郡)、そもそも歴史的な名残とどめた考えられる表記でもあり、これらの庄園範囲実情はほとんど知られていない近隣もしくは当地含めて成海庄」が存在していた1340年代、すなわち室町時代初期に洞廻間の地にやってきた南朝落人とされる武装集団20人あまりで、構成中山氏野氏、青山氏諸氏であったという。このうち中山氏平安時代中期東三条摂政藤原兼家系譜にある中山五郎左衛門系統考えられその出自法華経寺門前町である下総中山の地にあり、家紋三階松、兼家から数えて16代目の子孫が太平記が記すところの中山光能で、光能の5代目子孫にあたるのが戦国時代の武将中山勝時となる。後醍醐天皇綸旨受けて野氏らを引き連れ上京する敗走重ね最後熱田大神社宮司であった藤原氏従い美濃尾張北朝方に相対する敗戦、ついに洞迫間地に落ち延びてしまう。光能と勝時の間4代不詳とされているが、まさにこれらの代の過ごした時期野氏や青山氏と共にした洞廻間での隠遁時代相当する考えられる中山氏長く落人身の上であることを潔しとせず、緒川城城主である水野氏気脈を通じ続け永正年間1504年 - 1520年)には中山氏10人ほどが岩滑辺(やなべ)、現半田市)に移住し中山勝時岩滑城主として水野信元配下組み込まれることになる。一説には、1554年天文23年12月重原城が今川方に攻撃された際、洞迫間中山重時は織田方の部将として参戦する討死、その功によって嫡子中山勝時岩滑城主取り立てられたともいう。 一方野氏や青山氏士分捨てて土着する道を選び土地開墾し村作りを始める。和光長福寺境内に南接するあたり(位置)に居を構えたといわれ、1965年昭和40年)に区画整理が行われるまではうっそうとした広がり、3件の屋敷跡とふたつの井戸推定される遺構もみられたという。人々田畑を開くにあたって山頂山の神祀り、そこから石を投げて落ちた山背戸に石神社(しゃぐじ(社宮司)しゃ)を祀り、さらにそこに鍬を立てて御鍬社を祀ったといい、やがて田を耕す者が田楽奉納し始め、また天照大神祭神とする桶狭間神明社立てられ氏神とされるうになる。 なお梶野渡によれば村人たち落武者という出自コンプレックスを相当長い間持ち続け他村との交流をほとんどなさずに山奥閉鎖的退嬰的な生活を続けてきたといわれ、長年人口移動少なく同族意識きわめて強い人々であったとされるよそ者侵入には特に神経とがらせスパイ思わしき山伏密かに殺害したなどの伝承残っている。1875年明治8年)の調査における廻間戸数81であったが、そのうち野姓が56戸、青山姓が9戸あり、この2姓が80パーセント占めている。2013年平成25年)現在でも、セト山中心とした大字桶狭間大字有松全域および豊明市栄町にかけて、野姓や青山姓が多くみられるいずれにしても落人たちは出自身分明らかになるような証拠ことごとく隠滅したといい、江戸時代至って尾張藩支配下に入るまで実情知りうる一次史料皆無だとされる。しかし、室町時代末期である桶狭間の戦いの頃には戸数20から25人口100人から150人を数えたといい、としての形が次第整えられていった様子うかがえる。またこの頃、洞迫間領していたのは岩滑移り住んだ中山氏であったともいわれる

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