桶狭間の始まり
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平安時代中期の百科事典『和名類聚抄』(承平年間(931年 - 933年))は、尾張国8郡のひとつである愛智郡の中に「成海(なるみ)郷」の所在を示している。その領域を正確に確定することは困難であるが、成海の表記が後年「鳴海」に変化し、江戸時代にはその遺称を受け継ぐ大村鳴海村が成立、明治時代以降の行政町である鳴海町を経て現在では名古屋市緑区の大部分(主に名古屋鉄道名古屋本線から以東の地域)で行政区画としての鳴海町が存続しており、この鳴海村・鳴海町の範囲が少なくとも成海郷の一部に含まれていたことはほぼ明らかであるとされている。 ところで、『延喜式神名帳』(925年(延長5年))に記載された尾張国愛知郡17座のうち、現在でも古名をとどめる成海神社(位置)と共に「火上姉子神社(位置)」も成海郷内に鎮座していたとする。鎌倉時代中期に成立したという『熱田太神宮縁起』に「奈留美者、是宮酢媛所居之郷名、今云成海」という記述があり、宮酢媛(みやずひめ)の居所である氷上邑(ひかみむら)すなわち後年の知多郡大高村一帯もまた、愛智郡成海郷に含まれていたことを示唆するものである。 12世紀頃に丹羽郡郡司良峰氏によって開発されたとされる「成海庄」、1357年(延文2年、正平12年)に後光厳天皇の綸旨を受けて醍醐寺三宝院が「御祈料所」として知行することになった「鳴海庄」が、郷名を継承した以外に往年の「成海郷」とどのような関連があるかは不明であり、「成海庄」と「鳴海庄」の関連性もはっきりしていないものの、これら3者の領域は少なくとも後年の鳴海村を越え、とりわけ「鳴海庄」に至っては、西は「成海郷」と同様に大高を包括したほか、さらにその先の名和(なわ、現東海市名和町付近)にも領域を広げていたとみられ、東は傍示本(ほうじもと、現愛知郡東郷町大字春木付近)、高大根(たかおおね、現豊明市沓掛町上高根・下高根付近)、沓懸(くつかけ、現豊明市沓掛町本郷・宿付近)、大脇(現豊明市栄町付近)に至る、おおむね天白川以東に広がる広範囲をいったものと推測されている。 東に大脇・沓掛、西に大高、北に鳴海という愛智郡の領域に取り囲まれた洞迫間あるいは有松の地が、近隣同様に愛智郡成海郷あるいは鳴海庄に属していたかどうかははっきりと分かっていないが、南の現大府市域に属する多くの村々と同様、むしろ知多郡の「英比(あくひ)庄」・「英比郷」と何らかの関わりを持つ地であったともいわれる。「英比郷」は建武年間(1334年 - 1336年)に足利尊氏が「不断大般若経䉼所」として熱田社に寄進したとする土地で、初め南部にあった熱田社領が徐々に国衙領を浸食しながら北部に広がったとみられることから、英比郷中心地(現知多郡阿久比町付近)に比べて開発が遅れていた最北部の洞迫間が15世紀以降に熱田社領に含まれたとする想定も、まったく不可能ではないかもしれない。 また、『寛文村々覚書』(寛文年間(1661年 - 1673年))には各村の概説の始めに所属の庄名が記されているが、これによれば桶廻間村は近崎村・有松村などと共に知多郡「花房庄」に属していたことが示されている。『寛文村々覚書』は知多半島の中央部から付け根にかけての村々に「英比庄」・「花房庄」・「大高庄」・「荒尾庄」などを冠しているが(いずれも知多郡)、そもそもが歴史的な名残をとどめたと考えられる表記でもあり、これらの庄園の範囲や実情はほとんど知られていない。 近隣もしくは当地も含めて「成海庄」が存在していた1340年代、すなわち室町時代初期に洞廻間の地にやってきた南朝の落人とされる武装集団は20人あまりで、構成は中山氏、梶野氏、青山氏の諸氏であったという。このうち中山氏は平安時代中期の東三条摂政藤原兼家の系譜にある中山五郎左衛門の系統と考えられ、その出自は法華経寺の門前町である下総中山の地にあり、家紋は三階松、兼家から数えて16代目の子孫が太平記が記すところの中山光能で、光能の5代目子孫にあたるのが戦国時代の武将中山勝時となる。後醍醐天皇の綸旨を受けて梶野氏らを引き連れ上京するも敗走を重ね、最後は熱田大神社宮司であった藤原氏に従い美濃尾張で北朝方に相対するも敗戦、ついに洞迫間の地に落ち延びてしまう。光能と勝時の間の4代は不詳とされているが、まさにこれらの代の過ごした時期が梶野氏や青山氏と共にした洞廻間での隠遁時代に相当すると考えられる。中山氏は長く落人の身の上であることを潔しとせず、緒川城城主である水野氏と気脈を通じ続け、永正年間(1504年 - 1520年)には中山氏10人ほどが岩滑(柳辺(やなべ)、現半田市)に移住し、中山勝時は岩滑城主として水野信元の配下に組み込まれることになる。一説には、1554年(天文23年)12月に重原城が今川方に攻撃された際、洞迫間の中山重時は織田方の部将として参戦するも討死、その功によって嫡子の中山勝時が岩滑城主に取り立てられたともいう。 一方、梶野氏や青山氏は士分を捨てて土着する道を選び、土地を開墾し村作りを始める。和光山長福寺の境内に南接するあたり(位置)に居を構えたといわれ、1965年(昭和40年)に区画整理が行われるまではうっそうとした林が広がり、3件の屋敷跡とふたつの井戸と推定される遺構もみられたという。人々は田畑を開くにあたって山頂に山の神を祀り、そこから石を投げて落ちた山背戸に石神社(しゃぐじ(社宮司)しゃ)を祀り、さらにそこに鍬を立てて御鍬社を祀ったといい、やがて田を耕す者が田楽を奉納し始め、また天照大神を祭神とする桶狭間神明社が立てられ氏神とされるようになる。 なお梶野渡によれば、村人たちは落武者という出自のコンプレックスを相当長い間持ち続け、他村との交流をほとんどなさずに山奥で閉鎖的・退嬰的な生活を続けてきたといわれ、長年人口移動が少なく、同族意識がきわめて強い人々であったとされる。よそ者の侵入には特に神経をとがらせ、スパイと思わしき山伏を密かに殺害したなどの伝承も残っている。1875年(明治8年)の調査における桶廻間村の戸数は81戸であったが、そのうち梶野姓が56戸、青山姓が9戸あり、この2姓が80パーセントを占めている。2013年(平成25年)現在でも、セト山を中心とした大字桶狭間・大字有松全域および豊明市栄町にかけて、梶野姓や青山姓が多くみられる。 いずれにしても、落人たちは出自や身分が明らかになるような証拠をことごとく隠滅したといい、江戸時代に至って尾張藩の支配下に入るまで村の実情を知りうる一次史料は皆無だとされる。しかし、室町時代末期である桶狭間の戦いの頃には戸数20から25、人口は100人から150人を数えたといい、村としての形が次第に整えられていった様子がうかがえる。またこの頃、洞迫間を領していたのは岩滑に移り住んだ中山氏であったともいわれる。
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