いん‐きん【印金】
摺箔
(印金 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/29 10:55 UTC 版)
摺箔(すりはく)とは金箔や銀箔、雲母などを糊などの接着剤で接着する生地の装飾技法のこと[1]。また、そうして作られた物[1]。生地は羅や紗、緞子、繻子などが多く、上に文様を彫った型紙を置き、文様を表すようにすることもある[1]。摺り箔、印金とも呼ぶ[1]。
印金の技法は中国で完成し、奈良時代ごろ日本に伝来したことが正倉院宝物の調査で推定されている。
大陸との交流が少ない日本では本場中国とは違った発展を遂げ、衣服の装飾として利用されるようになったのは鎌倉時代の後期ごろで、当初は能の舞台衣装などに利用されて能とともに発展した。
女歌舞伎や南蛮好みなど豪壮で艶麗な風潮の織豊期に豪奢な外観を好まれ辻ヶ花などと併用されて最盛期を迎える。
しかし、質実剛健を旨とした徳川幕府のもと度重なる倹約令によって禁止されて豪商などの衣装としては衰退、一部上流階級の元にのみ技法が残ったがこのことによって意匠がより洗練された。
現在でも京友禅と併用して婚礼の打掛けなどの装飾に利用される。
技法
生地に少量の漆で模様の形を塗り、その上に金箔を撚れないように載せる。
ごく小さな部分の場合は漆がすぐに乾くため、刷毛で余分な金箔を払って完成。
三日の間ほんの少しでさえ動かすことも無く清潔な部屋で漆を乾かすが、乾くまでの間一切の作業は中断する。
比較的小さな面積に行うならこれでお終いだが、晴れ着などで大きな面積に行う場合これを何度も繰り返して完成するため遥かに手間と日時がかかる。
脚注
関連項目
印金
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/03 15:35 UTC 版)
上述のように、金相場会所は正金を売買するだけで、受け渡しは即日限りであったが、いつのまにか印金(しるしきん)という、小判の定期売買を試みる者が出てきた。しかし、これは表向きには許されていなかった。 その方法は、あらかじめ売買の宿を定めておいて、売買両者から敷銀を宿主に供託し、日限を定めて小判の値段をたて、売買証書を作成する。約束の日限になると、そのときの相場と比較して、その差金を敷銀から支払い、勝負を決し、宿主には売買両者から口銭を出すというものである。 印金の売買は、寛文年間以来しばしば禁じられた。ただし、1763年(宝暦13年)に、冥加金1500両を上納して、大阪に金銭延売買会所を設立することを請願した者もいたという。その後、許可されることとなった。 会所は、北浜1丁目浜(金相場会所構外)と南本町1丁目にあり、仲間は200余名であった。この仲間は「延屋仲間」といい、本両替屋とはまったくの別物で、売買の主眼は相場変動による差金の授受である。 相場の高下に、一定の制限(2 - 3匁という)をつけ、これ以上、または以下となったときは、上流(うわながれ)、下流(したながれ)といった。 また、生相場(うまれそうば)といって、限度までの差金を授受するにとどめ、ふたたび正金相場を標準とし、新たに延売買を開始した。これはあまり行われなかったらしく、たびたび冥加金を減額していたが、最後の請負人は、冥加金を1年35両にしてほしいと願っていたほどであった。1843年(天保14年)に、一旦廃止された。その後、1867年(慶応3年)12月に、再び設立を許されたが、1868年5月(慶応4年)に金相場会所とともに廃止された。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
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