株仲間組織改編
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 09:19 UTC 版)
安永7年(1778年)7月18日に町奉行所の命で行われた株仲間の組織改編で、天王町・森田町・片町の三組を三町とも30人ずつとし、一町を6組に分けて各組5人とし、そのうち1人ないし2人を月行事とした。さらに各町30人の上に、町奉行が指名する組役を2人ずつ置くと決められた。 組織の細分化にあたり、組替えの申渡しの第1項に公定の利子率(年利18パーセント)を守り、高利礼金や奥印金の禁止、第2項では諸役向き勤め方を札差主人自身が勤め、「武家へ対し不作法之儀これ無き様」という文言がある。この改編の目的は札差による搾取や武家に対する無礼を抑止することだったのである。 組織を改編して約3ヶ月後の10月、仲間奥印金の制が発足する。これは実際に金融資金に不足している札差が、仲間内で融通しあう方法である。規定以上の高利で貸付ける奥印金を厳禁したため、かえって札差から十分な金融が得られなくなったり、あるいは札差に旗本・御家人への金融拒否の口実を与えたりしないための制度であった。その貸付仕方によると、仲間奥印金は札旦那への金融額の3割に止め、7割以上は自己資金たること、年利15パーセントで融通を受け、札旦那へは規定の18パーセントで貸付けることなどとなっている。 この行事による取締役制度は天明7年(1787年)に廃止されたが、三町組・各6組・1組5人編成は、幕末までほぼ同じであった。
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