株仲間解散後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 13:36 UTC 版)
株仲間解散令によって、仲間は解散され、仲間株も廃止、「問屋」の名称の使用も禁止となった。しかし、江戸幕府への御用に差し支えがある、または日用への供給にも支障が出たこと、また不正が横行したことから、仲間解散前と同様の仕法が行なわれ続けた業種がいくつもあった。 また、地方市場の発展や、仲間解散による流通の混乱などから、商品を潤沢にすることで物価を下げようとした目的はなかなか果たせなかった。この当時、庶民の所得が増えて需要が拡大したことから江戸や大坂以外の各地で地域市場が成長したことで、江戸・大坂への大市場への商品流通量が減少したことも物価が下がらなかった原因の1つだった。 株仲間の株には担保価値があり、仲間商人たちはそれぞれの株式の評価額に応じて融資を受けていた。たとえば札差の株は宝暦の末ごろまでは20両から30両、天明年間には300両借りられるだけの価値があった。問屋商人は店舗を含めて家屋敷を所有していない、地借(借地人)・店借(借家人)と呼ばれる階層の者が多く、彼らにとって担保となるものが仲間株しか無かったが、株仲間解散によって株が無くなり、融資を受けられなくなって営業に支障をきたす商人たちも出てきた。 仲間組織は、取引をチェックすることで禁制品や盗品の売買を摘発し、盗賊の捕縛にも役立っていたのだが、仲間解散によってそうした機能も失われ、盗難事件などの解決も滞るようになった。
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