吉江景資とは? わかりやすく解説

吉江景資(よしえ かげすけ) 1527~1582


吉江景資

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/19 13:32 UTC 版)

 
吉江景資
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 大永7年(1527年
死没 天正10年6月3日1582年7月21日
別名 与橘(通称)?
官位 織部佑
主君 上杉定実謙信景勝
氏族 吉江氏
父母 吉江宗信[1]
寺島長資中条景泰長忠
特記
事項
父・宗信との同一人説あり
テンプレートを表示

吉江 景資(よしえ かげすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将長尾氏上杉氏)の家臣。越後国吉江城主。魚津城の戦いにおける守将の一人とされる。

生涯

大永7年(1527年)、越後西蒲原郡弥彦庄吉江の国人吉江宗信の子として誕生。

上杉謙信に旗本として仕え、謙信の関東や越中国出兵の際は春日山城留守居役軍監などを務めた。永禄10年(1567年)には下野国唐沢山城を守った。天正年間からは、能登国や越中を転戦した。

天正6年(1578年)の謙信急死後、景資ら吉江氏が守備する越中は織田信長配下の柴田勝家の攻勢に晒され、吉江一族は奮戦するも、本能寺の変の翌日の天正10年(1582年)6月3日、魚津城で父・宗信、長子寺島長資、次男中条景泰と共に親子3代揃って自害したと考えられている。享年55。しかし「魚津在城衆十二名連署状」の中には景資の名はなく、大きな謎として残っている。自害した日は信長が本能寺の変で自害した翌日であった。

家督は遺子・長忠が継いだ。

系譜

  • 父:吉江宗信(1505-1582)
  • 母:不詳
  • 室:不詳
    • 長男:寺島長資(?-1582) - 六蔵(六三)、長秀、寺島和泉守の養子。魚津で共に自刃。
    • 次男:中条景泰(1558-1582) - 与次、中条景資の養子。魚津で共に自刃。
    • 三男:吉江長忠(永禄9年(1566年) - ?) - 与橘?。戦後、上杉景勝に所領を安堵され吉江氏の家督を継いだ。当時16歳。

脚注

  1. ^ 『『戦国人名辞典』の吉江景資の項の執筆者福原圭一は、花押の形状から宗信が景泰の父景資と同一人であるとする。『上杉年譜』天正2年(1574年)6月20日の条にも「吉江常陸介宗信カ男与次ヲ家督ニ命セラル」とあり、父子としている。一方、祖父であるとの見解は『越佐史料』の比定に基づくものであるが、金子拓氏は各書状の比較検討により景資(織部佑)と宗信(常陸入道宗ギン)が別々に実在したのは間違いないとし『越佐史料』の比定を支持している。(『大日本史料第十編之二十三編纂ノート』)』

出典

  • 『越佐史料』
  • 『上杉家御年譜』
  • 『中条家文書』

関連作品

  • 『蜃楼の城郭』佐伯光太郎(文芸社

外部リンク

先代
吉江宗信
吉江家当主
? - 1582
次代
吉江長忠



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「吉江景資」の関連用語

吉江景資のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



吉江景資のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
戦国武将覚書戦国武将覚書
Copyright (C) 2025 戦国武将覚書 All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの吉江景資 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS