一揆の鎮圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/10 14:38 UTC 版)
宇野丹蔵が江戸に戻った後に出された4月1日付の召喚状には、名主の総右衛門ほか7名が債権者側の、新兵衛ほか10名が一揆側の首謀者として名があった。一方、幕府から出兵を命じられた出羽国山形藩の堀田正虎は、総勢500人以上の兵を繰り出し、召喚に応じなかった一揆首謀者の中の弥次郎以下5人を捕縛した。 4月21日に代官立会いのもとで下された判決は、新兵衛以下7名が磔・獄門などの極刑、長瀞村の村民で一揆に加担した者・連判状に名を連ねた者も、罪の重さに従って遠島・田畑没収・牢舎などの処罰を受け、軽いとみなされた91人には過料となった。その一方で、債権者側は全員無罪となった。 幕府は翌8年、同様の騒動が全国に拡大せぬよう禁止令を廃止した。これにより全国に大地主が現れるようになった。
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